事件の概要
2002年7月、群馬県前橋市で女子高校生が誘拐・殺害されるという痛ましい事件が起きました。犯人は当時36歳の無職男性・坂本正人(事件当時は姓名報道されずSと表記)で、彼は自分の妻子と無理やり面会するための人質にしようと女子高生を狙い、下校途中の16歳の女子高生Aさんを拉致しました。坂本は人目につかない山林に車で連れ込みAさんに性的暴行を加えましたが、逃げられそうになったため首を絞めて殺害し、その遺体を山中に遺棄しました。さらに坂本はAさんの携帯電話を使い、両親に「娘を返してほしければ50万円用意しろ」と身代金を要求します。
Aさんの両親は警察に通報しつつ要求に応じ、翌7月20日正午過ぎに指定場所で現金23万円を手渡しましたが、潜伏していた群馬県警の捜査員が直後に坂本を逮捕しました。逮捕当初、坂本は「仲間が人質を確保している」と嘘をつき共犯者の存在をほのめかしましたが、7月23日に嘘が発覚すると自分が単独でAさんを殺害し遺体を遺棄したと自供し、供述通り山中からAさんの遺体が発見されました。
Aさんは7月19日の午後、自宅からわずか100メートルほどの道で連れ去られており、不明から4日後に最悪の形で発見されたことになります。事件当時、高校1年のAさんはガソリンスタンドでアルバイトをして車の免許取得資金を貯める勤勉な少女で、将来は幼稚園の先生になる夢を持っていました。夏休み前日の終業式の日に、中学時代の吹奏楽部のコンサートを観に行く途中で事件に巻き込まれてしまったのです。
この凄惨な事件は地域社会に大きな衝撃を与えました。学校関係者は「模範的な生徒が…」と突然の悲劇に言葉を失い、多くの同級生たちも「なぜAさんが」と泣き崩れたと報じられています。事件後、被害者遺族や友人らは坂本への厳罰を求める嘆願書を呼びかけ、実に約7万6千人分もの署名が集まりました。この署名は刑事裁判で情状証拠として提出されるほどで(最終的には証拠採用されませんでしたが)、それだけ世間の関心と憤りが高かったことが窺えます。
加害者・坂本正人の生い立ち
坂本正人は1966年生まれで、事件当時は群馬県勢多郡粕川村(現:前橋市粕川町)で暮らしていました。坂本の実家は曾祖父の代まで畜産業を営む裕福な家でしたが、坂本が中学卒業する頃に家業が倒産し、家庭の経済状況は悪化しました。少年時代の坂本はスポーツ好きで明るい普通の子だったと近隣住民は証言していますが、実家が傾いた頃から次第に姿を見せなくなったともいいます。
1982年に地元の商業高校へ進学したものの、この頃から無免許でバイクを乗り回したり女友達と遊び歩いたりと素行が荒れ、高校1年で中退してしまいました。その後はいくつかの職場でアルバイトや工員・とび職などを転々としますが、定職には就かず不安定な生活が続きました。
20代の坂本は異性関係や金銭面でも問題行動が目立ちました。1989年、坂本は最初の妻Xさんと結婚して2人の子どもをもうけます。しかし建設作業員など職を次々辞めて収入を家計に入れなかったり、複数の女性と交際して借金までして遊興費に充てる生活を送ったりと、家庭を省みない振る舞いが度重なりました。こうしたことから夫婦仲は悪化し、妻の母親と激しい口論になったのを機に1993年に離婚しています。
離婚後は実家に戻りましたが、懲りずに1996年頃には風俗店勤務の女性Yと知り合い、その連れ子だった女児Zちゃん(当時小学2年生)も含めて同居生活を始めました。1999年にYさんと再婚しますが、その後も坂本はとび職などで働きつつ職場でトラブルを起こして長続きせず、妻Yさんに対してもしばしば暴力を振るうようになっていきました。アパートの近隣住民とも揉め事を起こして退去する事態になり、2000年頃からは妻子と共に坂本の実家で両親や弟と同居するようになります。2001年4月にはYさんとの間に長女も生まれますが、その出産費用を巡る金銭トラブルで妻の両親と争いになり、以前からの暴力もあってYさんは坂本に愛想を尽かし、2001年7月に離婚しました。
事件前の異常な言動と計画
Yさんと再び離婚した後も、坂本は生活の安定を欠いたままでした。別れたYさん親子を取り戻そうと考えた坂本は、2001年10月頃に無理やり彼女らを実家に呼び戻し同居を再開します。しかし約2ヶ月後の12月頃から、連れ子のZちゃんにまた暴力を振るうようになりました。2002年5月7日にはZちゃんの頭を平手打ちし、タンスにぶつける暴行を加えて頭部裂傷のケガを負わせています。この児童虐待に気付いた学校教師の通報で児童相談所と警察が動き、6月5日に児童相談所の職員が坂本宅を訪問調査しました。
坂本は虐待の事実を否定し、家庭に踏み込んでくる児童相談所への怒りを露わにして調査員を追い返しました。この直後、坂本は妻Yさんに「お前らといたら、そのうち俺は犯罪者にされちまう。子どもを連れて出て行け!」と怒鳴りつけ、追い出すようなことまで言っています。耐えかねたYさんは6月7日、娘2人(Zちゃんと生まれたばかりの長女)を連れて家を出て、坂本の元を逃れました。突然妻子がいなくなった坂本は「Yたちは児童相談所に逃げ込んだに違いない」と思い込み、児相や警察署、Yさんの実家などを捜し回りましたが行方は掴めませんでした。
子どもたちと会いたいという執着と妻に逃げられた怒りから、坂本の思考は次第に常軌を逸していきます。「Zの通う小学校の教室を乗っ取り、教員や児童を人質にして児童相談所に電話し、Yや子どもたちとの面会を要求してやろう」といった突飛な犯行計画を思い描き、実際に灯油をペットボトルに詰めたりビニール紐を用意したりと、人質立てこもりに使う道具を密かに準備していました。
準備期間中の7月9日、坂本は強盗事件を起こし資金を得ますが、それも数日で使い果たし、次第に「どうなってもいい、やりたいことをやろう」と自暴自棄になり、最終的にAさんを拉致・殺害するという凶行に至るのです。
精神鑑定と責任能力
坂本の犯行は常識では考えられない突飛な発想に基づくものであったため、刑事裁判では精神疾患や人格障害の有無が検討されました。第一審の途中で弁護側は精神鑑定の実施を申請しましたが、2003年5月8日の第5回公判で前橋地裁はこれを却下。裁判所は坂本に刑事責任能力が十分あるとみなし、審理はそのまま続行されました。
坂本は逮捕後の取り調べや公判でも犯行自体は一貫して認めており、妄想や幻覚に支配された形跡もありませんでした。裁判所は「反省の表現が下手なだけで、責任能力を疑うものではない」と判断しています。被害者の母親は「娘を返してほしいし、Sを死刑にしてほしい」と訴え、裁判は坂本の責任を厳しく問う方向で進みました。
裁判の経過と判決
第一審(前橋地裁)
2002年10月21日、前橋地裁で初公判が開かれ、坂本は起訴事実をすべて認めました。その後、児童虐待や強盗についても追起訴され、坂本はそれらについても罪状を認めました。被害者遺族の証言や、約7万6千人分の嘆願署名、同級生の作文などが提出され、厳罰を求める声は非常に大きなものでした。
弁護側は坂本の生い立ちや性格をもとに「人格の形成に家庭や社会にも責任がある」と主張。2003年10月9日、前橋地裁は「刑事責任は重大」としつつも「殺害は偶発的」として無期懲役判決を下しました。判決後、裁判長は「死刑にしなくて良かったと思ってもらえる人間になってほしい」と語り、遺族にも「国家が死刑を判断することの重みを理解してほしい」と伝えました。
控訴審(東京高裁)
検察側は量刑不当として控訴し、坂本本人も「死刑じゃないのはおかしい」と自ら控訴。控訴審では被害者遺族が改めて極刑を望む証言を行いました。坂本は謝罪の手紙を出しておらず、「軽くならないようにあえて出していない」と答えるなど、態度も物議を醸しました。
2004年10月29日、東京高裁は「犯行は計画的であり極めて残虐」として死刑判決を言い渡しました。高裁は「身勝手な動機、被害者1人でも死刑はやむなし」と判断し、一審判決を破棄。坂本は上告せず、2004年11月に死刑が確定しました。
死刑確定と執行
死刑判決後、坂本の弁護人は上告を検討しましたが、坂本本人が「上告しても自分は取り下げる」と述べたため断念。2004年11月12日付で死刑が確定。2008年4月10日、東京拘置所にて坂本正人の死刑が執行されました。
社会的反響と教訓
本事件は家庭内暴力の果てに、無関係な少女が命を奪われるという極めて痛ましいもので、日本社会に大きな衝撃を与えました。児童相談所の介入が逆恨みされ、無関係な少女が人質として狙われた事実、そして身代金目的の殺人という極めて悪質な内容は、刑事司法制度と社会の安全保障の両面で多くの議論を呼びました。
前橋地裁が無期懲役を下し、東京高裁が死刑を選択するまでには、遺族感情・世論・司法判断のバランスに苦悩する裁判所の姿がありました。「仇討ちが許されないなら国家が敵を討ってほしい」という遺族の声、「死刑は国家が慎重に判断すべき刑罰だ」という裁判官の言葉は、犯罪被害と量刑判断のあり方を改めて問うものでした。
出典:読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、前橋地裁・東京高裁の判決記録など
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