青森県一家7人殺害事件|「杉沢村伝説」の元になった恐ろしい事件の真相

凶悪事件

1953年(昭和28年)に青森県で起きた「新和村一家7人殺害事件」。この事件、実はあの有名な都市伝説「杉沢村伝説」の元ネタになったと言われているんです。今回は、この衝撃的な事件の全貌と、なぜ犯人が「無罪」になったのか、そしてその後の社会にどんな影響を与えたのかを、わかりやすく解説していきます。

事件の始まり:静かな村を襲った悲劇

事件が起きたのは、1953年12月12日の深夜。場所は青森県中津軽郡新和村(今の弘前市の一部)の小友地区でした。

犯人は、リンゴ農家の三男だった当時24歳のMという男性。彼は自分の父親や一番上の兄を含む、一家7人を猟銃で撃ち殺しました。

Mは「実家に味噌を盗みに入った時、物置で猟銃を見つけた。もし盗みがバレたら父や兄に殺されると思い、先に殺してしまおうと決めた」と話しています。この供述からは、彼が家族に対して強い恐怖を抱いていたこと、あるいは妄想にとらわれていた可能性がうかがえます。これが、後の裁判で「心神喪失」と判断される大きな要因になったと考えられます。

Mはまず寝ていた父親の頭を撃ち、次に別の家族も射殺しました。最終的に、父親や長兄を含む7人が猟銃で命を落としました。

さらに悲劇は続きます。犯行後、Mの実家は原因不明の火事で全焼し、兄夫婦の娘が一人、焼死してしまいました。これにより、事件による死者は合計8人になったのです。一般的には「7人殺害事件」と呼ばれますが、火事の犠牲者を含めると「8人殺し事件」とも言われるのはこのためです。

ちなみに、一部の本では「村の青年団長が母親の白内障手術費用のため」に事件を起こしたと書かれているものもありますが、裁判の記録を見ると、Mの供述内容の方が信頼性が高いようです。都市伝説になる過程で、話が少し変わって伝わってしまったのかもしれませんね。

ポイント詳細
事件名青森県新和村一家7人殺害事件
発生日時1953年12月12日 深夜
発生場所青森県中津軽郡新和村小友地区(現在の弘前市)
犯人M(当時24歳、リンゴ農家の三男)
被害者猟銃で7人、火事で1人、合計8人が死亡
使われた凶器猟銃
殺人罪の判決無罪(心神喪失と判断されたため)
その他の判決住居侵入罪で懲役6ヶ月・執行猶予2年
特徴都市伝説「杉沢村伝説」の元になったと言われている

事件の背景:貧困と家族の確執

この事件の背景には、犯人Mの複雑な家庭環境と、当時の村の事情が深く関わっていました。

事件が起きた小友地区は、リンゴ栽培が盛んで豊かな農村でしたが、同時に貧富の差が激しい地域でもありました。村の8割は裕福だった一方で、残りの2割は極度の貧困にあえいでおり、特に家督を継げない次男や三男は最底辺に置かれることが多かったのです。当時の小友では、新しい民法で「家族平等の原則」が導入された後も、家の財産はすべて長男が継ぐという古い習慣が根強く残っていました。

Mは中流家庭に生まれ、小学校を卒業後、家業の農業を手伝っていました。しかし、病気で一度奉公先から戻ってきてからは、自宅で農業をしながら桶職人の見習いをしていました。Mの次兄や母親、妹は、Mのことを「おとなしく良い若者」「真面目で親思い」「優しい兄」と証言しています。しかし、M自身は「自分は出来が悪いから父親に憎まれている」と感じていたようです。

Mの父親Xは、広大なリンゴ農園を持つ裕福な農家で、村の顔役でもありました。しかし、Xはケチで怠け者、酒癖も悪く、家庭を顧みないことが多かったため、家庭内は常に揉め事が絶えませんでした。Xは自分の非を認めない頑固な性格で、気に入らないという理由で一方的に妻(Mの母親)を追い出すこともありました。Mの母親は、Xが若い頃から女遊びに夢中で、酒に酔っては暴力を振るうこともあったと証言しています。彼女は1951年(昭和26年)の秋に、Xの暴力に耐えかねて家を出て、事実上夫婦別れの状態でした。

Mの母親がXを相手に離婚訴訟を起こしたことで、MたちとXの関係はさらに悪化しました。長男A1は、両親の離婚訴訟の法廷で「Mと一緒にXを毒殺する用意をしたことがある」と証言するほどXを憎んでいましたが、その後はX側につくようになりました。母親が家を出てからは、A1が財産を独占しようとし、弟たち(次男や三男M)をことあるごとに嫌い、別居を迫ったのです。

事件前年の1952年7月頃、Mは父親Xと兄A1によって家を追い出され、布団や鍋、米一斗(約15kg)だけをもらって実家を出ました。それ以来、Mは集落の端にある民家の一室を間借りして桶屋として生活していましたが、日々の食べ物にも困るほどの極貧生活を強いられていました。Mの母親は、Mたちが家を追い出されたのは、Xが後妻を家に連れてくるために邪魔だと感じたからではないかと述べています。

Mは祖母Yの好意で、わずかに米や味噌をもらいに実家を訪れることはありましたが、それ以外はめったに実家には近づきませんでした。1953年10月頃には、親戚宅の物置小屋の庇を借りて生活するようになります。この小屋は畳もなく、犬小屋のように汚い場所で、Mは藁を敷いて雨露をしのいでいましたが、雨風や吹雪の夜は寒さに震えながら一晩中眠れず、自分の不幸を泣き明かすこともあったといいます。炊事もできなかったため、Mは仕事先で食事をさせてもらっていました。

このような極貧生活を送るMに対し、XやA1夫婦は全く助けようとせず、Mは彼らの仕打ちに強く憤っていました。そのため、Mは1950年(昭和25年)秋頃、A1にそそのかされて「青酸カリでXを毒殺しよう」と考えたこともありました。しかし、母親に相談したところ、「そんなことをしても私もお前も生きていられないから、私に任せて我慢しなさい」と止められ、思いとどまったのです。

また、1953年秋頃には村の駐在巡査に対し「親の家から物を持って来ても罪になるか」「正当防衛とは何か」と尋ねていたことも明らかになっています。A1の妻A2も、1953年の旧盆の頃に実家で「Mが家の人を全部焼き殺してしまうという話を聞いたので、小友の家へ帰るのが怖い」と話していたとされています。これらのことから、殺人については計画的な犯行も疑われましたが、裁判所は「殺人が計画的なものだったことを認めるに足る証拠ではない」と判断しました。

事件当日の詳細な経緯

事件前日の12月11日、Mは餅臼の修繕の仕事をして、その礼金で密造酒を飲みました。その後もリンゴの代金を請求しに行ったり、パチンコをしたりして、最終的に約1升6合もの酒を飲んでいました。M自身は「本心がなくなるほど酔ってはいなかった」と供述していますが、酩酊状態であったことは確かです。

12月12日午前0時頃に帰宅したMは、自宅に味噌がないことに気づき、実家から味噌を盗もうと思い立ちました。懐中電灯を照らしながら、約300m離れた実家まで雪道を歩き、午前1時過ぎ頃にXが所有する物置小屋に侵入しました。この時までは、Mは自分の行動を鮮明に意識し、後で正確に記憶を思い出しています。

しかし、物置小屋の中にあった猟銃と実弾十数発が入った弾帯を見つけた瞬間、Mは「万が一味噌を盗んだことがXやA1に知られれば、彼らに猟銃で撃ち殺されるかもしれない」と錯乱し、先に彼らやその家族を射殺することを決意したとされています。

午前1時過ぎ頃、Mは弾帯を腰に帯び、猟銃を持って、物置小屋に隣接する実家(住宅)へ侵入しました。

まず、就寝していた父親Xの頭部を、布団から約60〜90cmの距離から狙撃し、殺害しました。次に、一緒に寝ていた甥のA3も射殺し、A3の頭部からは20発以上の弾丸が摘出されています(射殺された被害者7人の中で最多)。

さらにMは次の間(四畳半)で銃を片っ端から撃ち、長兄A1夫婦と長女A4を相次いで射殺しました。Mは残る祖母Yと伯母Zを射殺した際の状況は覚えていないと供述していますが、それ以外の5人については「ただ漠然と射撃した記憶がある」と述べています。逮捕直後には「最初は幼い子供たちは殺す気はなかったが、兄A1が憎いのでその子供たちにも憎しみが重なり、いっそ殺してしまえと思って射殺した」とも供述しています。

A1・A2・A3・A4・Yの5人は、銃声を聞いて布団に潜り込みましたが、Mによって布団の中に銃口を挿入され、頭部や肩付近を至近距離から撃ち抜かれていました。特に祖母Yの遺体は損傷が著しく、頭部や顔面が粉砕されていました。伯母Zは道路に面した縁側へ逃げ込みましたが、縁側の隅で腰部を撃たれて射殺されたと推測されています。MはZが射殺されたと思われる際の行動について、「道路に面した奥の方の部屋で、女の『あーっ』という叫び声が聞こえ、射撃したことを覚えている」と供述しています。

Mは犯行後、頭部から血を流し仰向けに倒れているXの前に、自分が猟銃を持って立っていることに気づき、その頃から次第に意識を回復したとされています。検察官の指摘によれば、Mが猟銃を見て精神障害に陥り、Xの前で意識を回復するまでの時間は1分33秒から1分43秒(多く見ても2分未満)とされており、純粋な犯行時間は72〜80秒程度とされています。

犯行後、Mは自分が父親を撃ったことを知って非常に驚き、凶器の猟銃を捨て、勝手口から家を出ました。事件直後(午前1時30分頃)、現場の前を通った男性は、Mが「おやじを殺してきた」と叫んでいるのを聞き、現場の様子を見に行きましたが、その時には物音もなく、異常な点も見られなかったと証言しています。

Mはすぐに自宅に戻ると、残っていた酒を煽り、メモ板に「〔M〕ノバカ、クルタ〔=狂った〕サク十二ジ二〇ブンニカエリウツイ〔家へ〕ミソノシム〔盗み〕ニイキマシタ。ツミアツタラタノム」(Mのバカ、狂った。昨12時20分に家へ味噌を盗みに行きました。罪に当たったら頼む)という書き置きを残しました。そして、弾帯を締めたまま、現場から約1km離れた親戚の家を訪れました。Mは親戚を起こし、泣き叫びながら「鉄砲で父に殺されると思ったので、父を撃った」と訴え、自首に付き添うよう申し出ました。駐在所へ向かう途中、Mは別の近隣住民にも犯行を打ち明けています。

しかし、Mが自首して巡査の取り調べを受けていた頃、X宅は出火し、全焼しました。この火事により、A1の次女であり、Mの姪でもある女児A5(当時3歳)が家の中で焼死しました。一方、この家には使用人の男性(当時23歳)も住んでいましたが、彼は2階の窓から飛び降り、手足などに火傷を負いながらも一命を取り留めました。Mは、この使用人についても「殺すつもりでいたが見当たらなかった」と供述しています。

なぜ「無罪」になったのか?:心神喪失という判断

Mは事件後、自ら警察に出頭したようです。最初の裁判は1954年2月1日に青森地裁弘前支部で開かれ、多くの人が傍聴に訪れました。

裁判でMは「父や兄を恨んでいたが、最初から殺すつもりはなかった。猟銃を見て『父に殺される』と思い、先に殺してしまおうと決めた」と話しました。また、祖母や子供たちを殺すつもりはなく、殺したことも覚えていないと主張しました。父親を撃ったことは覚えているものの、何発撃ったかなどは覚えていない、と記憶の曖昧さを訴えました。

弁護士は、父親と兄への殺人は認めたものの、他の5人については殺意がなかったと主張しました。驚くべきことに、検察官までもがMの母親が離婚訴訟を起こしていたことや、Mが父親や兄からひどい扱いを受けていたことなどを述べ、Mに同情的な見方を示しました。検察官は「事件の事実は明らかだが、問題は刑の重さだけだ。被告人の置かれた状況をしっかり調べてほしい」とまで言ったのです。Mが暮らしていた劣悪な環境の小屋も裁判で調べられ、彼の状況が判決に影響を与えたことがわかります。

そして裁判所は、Mが犯行時に「心神喪失」の状態にあったと判断し、殺人罪と尊属殺人罪(親族殺し)については「無罪」としました。当時の法律では、心神喪失と認められると、刑事責任を問われず無罪になることがあったのです。Mの記憶の欠如や、家族からの報復に対する妄想的な恐怖が、この心神喪失の判断につながった可能性が高いです。

当時の「心神喪失」の判断基準は、今よりも広く適用される傾向があったと言われています。1970年代前半には年間20~30件ほど心神喪失が認められていましたが、1984年の最高裁判決以降は年間10件以下に減っています。Mの事件は、当時のこうした法的・精神医学的な考え方の中で判断されたものなのです。

ただし、Mは殺人罪では無罪でしたが、物置小屋への住居侵入罪では懲役6ヶ月・執行猶予2年の有罪判決を受けています。これは、殺人行為は心神喪失とされたものの、住居侵入については責任能力が認められた、ということ。つまり、裁判所はMの精神状態を、すべての行動に対して一律に「責任能力なし」と判断したわけではない、ということを示しています。

ポイント詳細
無罪の理由犯行時に「心神喪失」の状態だったと判断されたため
当時の法律精神衛生法(1950年制定)
精神障害者の処遇措置入院(強制入院)や同意入院などがあった
心神喪失判例の傾向1970年代前半までは比較的多く認められていた

無罪判決のその後:都市伝説「杉沢村」の誕生

Mが無罪になった後、具体的にどうなったのかは、はっきりとした記録が残っていません。しかし、当時の法律である1950年(昭和25年)の精神衛生法に基づけば、心神喪失と判断されたMは、もし自分や他人を傷つける恐れがあると見なされれば、「措置入院」(強制入院)の対象になった可能性が高いです。彼は専門の精神病院に収容され、治療を受けたと考えられます。

今の法律と比べると、その違いは明らかです。2005年にできた「医療観察法」 は、心神喪失で無罪になった人に対して、入院や通院での治療を義務付ける制度です。入院期間に上限はありませんが、通院期間は3年間(延長可能)と決まっています。Mの事件当時には、このような明確なルールはなく、もっと個別の判断に委ねられていたと言えるでしょう。これは、精神障害を伴う犯罪者への社会の対応が、時代とともに大きく変わってきたことを示しています。

この事件が地域社会に与えた影響は、非常に大きかったようです。事件後、小友集落では「農家の素行不良者が真面目な家族に殺害される殺人事件が相次いで発生した」という衝撃的な記述もあります。もしこれが事実なら、この凄惨な事件が村に深い傷を残し、さらなる悲劇を引き起こした可能性を示唆しています。新和村自体は1955年に弘前市に編入されてなくなりましたが、これは事件が直接の原因ではなく、当時の全国的な市町村合併の流れによるものです。

そして、この「青森県新和村一家7人殺害事件」が、日本で有名な都市伝説「杉沢村伝説」の元になったと言われています。

「杉沢村伝説」とは、こんな話です。

「昔、青森県の山奥に杉沢村という村があった。昭和の初め頃、一人の村人が突然おかしくなって、村人全員を殺し、自分も命を絶った。誰もいなくなった村は地図から消え、廃村になったが、その廃墟には今も悪霊が住み着いていて、足を踏み入れた者には災いが訪れる」。

ノンフィクション作家の斎藤充功さんや石川清さんは、この事件が杉沢村伝説の元になったと指摘しています。また、作家の並木伸一郎さんは、この事件が1938年に岡山県で起きた「津山事件」(30人殺害事件)を思い出させるものだったため、二つの事件がごちゃ混ぜになって都市伝説の土台になったと分析しています。この伝説はインターネットで広まり、廃墟好きやオカルトファンが「杉沢村」を探しに行くブームが起きました。2000年にはテレビ番組『奇跡体験!アンビリバボー』で取り上げられ、全国的に有名になりました。

杉沢村伝説は、実際の一家殺害事件から大きく話が膨らみ、「村人全員殺害」という形で語り継がれています。これは、複雑で理解しにくい現実の悲劇が、よりシンプルで、そして強烈な恐怖を感じさせる物語へと変わっていく、人々の記憶の不思議なメカニズムを示しています。この事件と伝説の関係は、事実が物語の力によって形を変え、人々の心の中で「神話」になっていく過程をはっきりと教えてくれます。

まとめ

「青森県新和村一家7人殺害事件」は、1953年に青森で起きた、猟銃を使った悲しい事件です。犯人のMは「心神喪失」と判断され、殺人罪では無罪になりました。この事件は、戦後の日本の司法制度や精神医療がまだ発展途上だったこと、そして都市伝説が生まれる社会の心理を理解する上で、とても貴重な例と言えます。

Mが無罪になったのは、当時の法律で心神喪失が広く認められていたことと、彼のつらい生い立ちや精神状態に、裁判所が同情的な見方をした結果でした。彼が住居侵入罪では有罪になったことは、裁判所が彼の精神状態を、すべての行動に対して一律に「責任能力なし」と判断したわけではない、という複雑な判断を示しています。これは、今の「医療観察法」のような厳格な制度とは対照的で、精神障害者の責任能力に関する法律が時代とともにどう変わってきたかを示す重要な事例です。

この事件の最も大きな影響は、それが「杉沢村伝説」という有名な都市伝説の元になったことです。伝説は、事件の事実を大きく脚色し、より広い社会の恐怖や関心と結びついて広まりました。実際の事件の複雑な背景や個別の悲劇は、シンプルにされ、悪霊や呪われた場所といった要素が加わることで、人々の記憶の中で形を変え、文化的な現象にまでなりました。これは、現実の出来事が、社会の心理やメディアを通じて、事実を超えた物語へとどう変わっていくかを示す良い例です。

また、小友集落で別の殺人事件が相次いだという話は、この事件が単なる一つの犯罪にとどまらず、地域社会の奥深くにまで影響を与え、その後の社会問題の一部になった可能性を示唆しています。一つの極端な事件が、コミュニティの絆を揺るがし、負の連鎖を引き起こすこともある、ということを浮き彫りにしています。

青森県新和村一家7人殺害事件は、戦後の混乱期における日本の司法、精神医療、そして社会の心理が複雑に絡み合った、多面的な出来事として、今も私たちに多くのことを考えさせてくれるのです。

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