事件の概要と時系列
事件概要: 1990年5月12日夕方、栃木県足利市のパチンコ店駐車場で、父親と来店していた4歳の女児(松田真実ちゃん)が行方不明になりました。捜索の結果、翌13日朝に近くの渡良瀬川河川敷の中州で女児の遺体が全裸の状態で発見されました。死因は窒息と推定され、女児の衣服から犯人の体液が検出され、血液型はB型と判明しました。当初この「足利事件」は未解決事件として捜査されましたが、翌1991年末に菅家利和氏という男性が逮捕・起訴され、1993年に無期懲役が確定します。しかしその後、再鑑定によってDNA型不一致が判明し、菅家氏は冤罪だったことが2009年に明らかになりました。真犯人は捕まらないまま2005年に公訴時効が成立し、本事件は現在も未解決事件となっています。
経緯の時系列: 足利事件およびその後の主な経過を以下にまとめます。
- 1990年5月12日: 足利市内のパチンコ店で女児が失踪。翌日、渡良瀬川河川敷で遺体発見。周辺の運動公園で、多数の目撃者が「赤いスカートを履いた幼女と一緒に歩く不審な男」を目撃し、警察に証言しました。目撃者の一人(男性)は「漫画のルパン三世みたいな男だった」と証言しています。警察は捜査本部を設置し捜査開始。
- 1990年内: 警察は当初、目撃証言に基づき不審な男の捜索を行いましたが、数ヶ月後には理由不明のままそれを打ち切り、代わりに「独身男性で子供好き」というプロファイリングによる聞き込み捜査に軸足を移しました。
- 1991年12月: プロファイリングに合致する人物として浮上した菅家利和氏(当時45歳、幼稚園バス運転手)を、栃木県警が誘拐・殺人容疑で逮捕。決め手は女児の下着付着体液と菅家氏のDNA型が「一致した」とする鑑定結果でした。
- 1992年–1993年: 菅家氏は取調べ当初「犯行を自白」し書面に署名しますが、第一次裁判の途中(第6回公判)から無実を主張し自白を撤回します。1993年7月、宇都宮地裁は菅家氏に無期懲役の有罪判決を言い渡しました。
- 1996年–2000年: 菅家氏は控訴・上告するも棄却され、2000年7月に最高裁で有罪判決が確定。以後、菅家氏は服役(無期刑)します。
- 2002年12月: 収監中の菅家氏が宇都宮地裁に再審請求を申立て。
- 2008年: 日本テレビの報道特集番組「ACTION」にて清水潔記者が足利事件の再検証キャンペーンを開始。自白の矛盾やDNA鑑定の問題点を指摘し、DNA再鑑定の必要性を訴える報道が繰り返されました。2月、宇都宮地裁は再審請求を棄却するも、12月に東京高裁がDNA型の再鑑定実施を決定します。
- 2009年4月: 東京高裁の下で検察・弁護双方推薦の鑑定人がDNA再鑑定を実施。4月20日、双方とも「菅家氏のDNA型と女児下着の体液の型は一致しない」との鑑定結果を報告。試料が真犯人由来であることも確認され、菅家氏が犯人ではないことが科学的に裏付けられました(ただし時すでに公訴時効成立)。
- 2009年6月4日: 東京高検が「新鑑定結果は『無罪を言い渡すべき明らかな証拠』に該当する」として再審開始を事実上認め、併せて刑の執行停止を決定。服役17年半を経て菅家氏は千葉刑務所から釈放されました。釈放直後の会見で、菅家氏は「警察と検察は謝罪してほしい」と涙ながらに語っています。
- 2009年10月: 東京高裁が正式に再審開始を決定。同月、宇都宮地検の検事正が菅家氏に対面し「無実の菅家さんを起訴し長年服役させ苦痛を与えたことを検察を代表して心からお詫びします」と初めて公式に謝罪しました。
- 2010年3月26日: 宇都宮地裁で再審判決公判が開かれ、裁判長は「当時のDNA鑑定に証拠能力はなく、自白も虚偽であり、菅家さんが犯人でないことは誰の目にも明らか」として菅家氏に無罪を言い渡しました。判決後、裁判長は「真実の声に耳を傾けられず17年半にわたり自由を奪う結果となり誠に申し訳ない」と菅家氏に異例の謝罪を述べています。検察も控訴権を放棄し、無罪が即日確定しました。
- 2010年以降: 菅家氏は冤罪被害者として刑事補償約8000万円を受け取り、以後「冤罪の語り部」として冤罪防止の社会活動に取り組んでいます。真犯人は特定されないまま時効を迎えましたが、警察・検察はその後も本格的な再捜査を行っていません(後述)。

上記の足利事件を含む北関東連続幼女誘拐殺人事件の発生地点(栃木・群馬県境付近)を示した地図。5つの事件が17年間で半径約10km圏内に集中している。
菅家利和氏の逮捕とDNA鑑定・自白の経緯
プロファイリング捜査と菅家氏の浮上: 足利事件の初動では有力な目撃証言が多数寄せられていましたが(詳細は後述)、警察は1990年末頃から方針を転換し、「独身で子供好きの男」というプロファイリングによる聞き込み捜査に重点を置き始めました。この条件に合致した人物として捜査線上に浮かんだのが足利市内在住の菅家利和氏です。当時45歳の菅家氏は幼稚園のバス運転手を務めており、独身で近所の子供達とも遊ぶ姿が見られるなど「子供好き」と周囲に映っていました。前科・前歴は一切なく、それまで警察の捜査対象になったこともありませんでした。しかし捜査員は菅家氏にマークし、勤務先の幼稚園への聞き込みなどを行った結果、彼は職場に居づらくなり解雇されてしまいます。その後無職となった菅家氏は、自覚しないまま監視下に置かれ、ついに1991年12月に逮捕へと至りました。
DNA鑑定の決め手とその問題: 菅家利和氏逮捕の直接の決め手はDNA型鑑定でした。警察は密かに菅家氏の使用済みティッシュ(体液付着)をゴミ収集所から押収し、科学警察研究所で女児衣服の付着体液とDNA型を照合しました。その鑑定で「菅家氏のDNA型と一致した」と結論づけ、県警は1991年12月2日、菅家氏をわいせつ誘拐・殺人容疑で逮捕したのです。しかし当時導入されたばかりのDNA鑑定技術は、精度が低く不確実なものでした。1991年当時の鑑定法では「他人でも1000人に1.2人の割合でDNA型も血液型も一致する可能性」があり、現在のような絶対的識別力はありませんでした。また後年には「型の取り違え」(試料取り違え)など鑑定手法上の重大ミスの可能性も指摘されています。実際、本事件以外にも1990年代前半のDNA鑑定に基づく有罪判決には再検証が必要なものが複数あるとの指摘があります。当時この新鑑定を過信した警察・検察は、鑑定結果を「科学の折り紙つきの証拠」として菅家氏を犯人視しました。
取調べと自白の変遷: 菅家氏は逮捕直後から長時間の厳しい取調べを受けました。後の本人証言によれば、取調べ室では刑事たちから「証拠は上がってるんだ、お前がやったんだろ」「早く吐いて楽になれ」などと連日追及され、殴る蹴るはじめ髪を引っぱられ床に引きずられる、体ごと突き飛ばされるといった拷問に等しい暴行が15時間にも及ぶ日もあったといいます。耐えきれなくなった菅家氏は「どうにもならなくなって『やりました』と言ってしまいました」と釈放後の記者会見で語っており、絶望の末に虚偽自白をしてしまった過程がうかがわれます。取調べ段階では犯行を認める上申書にも署名させられ、自白調書が作成されました。しかし勾留が続く中で菅家氏は次第に自白を後悔し、裁判では一転して無実を主張します。第一審の第6回公判(1992年)から菅家氏は自白調書の任意性を争い、自らの無実を訴えました。この頃、菅家氏は「傍聴席に取調べ担当の刑事が来ているのでは」と怯えていたとも述べており、法廷でもなお取調べの圧力に怯える精神状態だったことが窺えます。また菅家氏の父親は逮捕直後にショック死し、無実を信じ続けた母親も釈放2年前の2007年に他界しており、菅家氏は「事件は家族も自分の人生もバラバラにした」と語っています。こうした状況下での自白が果たして信用できるのか、当時から疑問視する声も一部にありましたが、裁判では自白調書とDNA鑑定が有罪の決め手とされていきました。
裁判と有罪確定: 1993年7月、宇都宮地裁は菅家氏に無期懲役判決を言い渡しました。裁判所は「DNA鑑定の一致」および取調べ時の自白調書を「重要な積極証拠」と評価し、弁護側の無罪主張を退けています。菅家氏側は控訴しましたが1996年に東京高裁が棄却、その後DNA再鑑定を求める申立ても最高裁に却下され、2000年7月に最高裁で上告棄却・有罪確定となりました。最高裁は当時、「DNA型鑑定の証拠能力を認める」という初判断まで示し、菅家有罪判決を支持しました。このように17年半もの長期間にわたり菅家氏の冤罪が放置された背景には、警察の鑑定過信・自白偏重とともに、司法が誤判を修正する機会をことごとく逸した問題があります。判決後に有志が求めた当時の裁判官らへのアンケートでも、関与した14名全員が回答を拒否したほどで、「誤判を究明する仕組みがないことも問題だ」と新聞社説で指摘されました。
冤罪が明らかになるまでの経緯
支援者と再審請求の動き: 一審有罪後、菅家氏の無実を信じて行動した市民もいました。足利市の主婦・西巻糸子さんは、報道された菅家氏の人物像に違和感を覚え、1993年に拘置所の菅家氏へ手紙を書き面会を申し入れました。最初は断られましたが(所側が回答した可能性も指摘されています)、2ヶ月後に菅家氏本人から「無実です」という返事が届きます。これを機に西巻さんは冤罪支援を決意し、「菅家さんを支える会・栃木」を結成、以後も身元引受人となるなど尽力しました。菅家氏自身も2002年に再審請求を行い、日本弁護士連合会(日弁連)も再審支援に乗り出します。
清水記者の調査報道: 冤罪を決定づけた最大の転機は、ジャーナリスト清水潔氏(日テレ記者)による調査報道でした。清水氏は2007年頃から北関東の幼女誘拐事件群に注目し、足利事件について「本当に解決済みなのか?」と疑問を抱きました。2008年1月から日本テレビの大型報道特番「ACTION」で足利事件の特集を組み、菅家氏自白の矛盾や旧DNA鑑定の問題点を次々に報じたのです。さらに清水氏は、当時警察が伏せていた初期目撃証言の存在を掘り起こし、現場で目撃された真犯人らしき男(後述「ルパン似の男」)の情報を視聴者に伝えました。こうした報道による世論喚起が再鑑定・再審への流れを後押しし、清水氏自身、疑わしい男の取材を進めて警察に情報提供も行っています。結果として、東京高裁が同年末にDNA再鑑定を決断する大きな契機となりました。
DNA再鑑定と冤罪判明: 2008年12月、東京高裁は足利事件の証拠について最新のDNA再鑑定を実施する決定を下します。翌2009年2月から鑑定が始まり、4月までに弁護側鑑定人・本田克也筑波大学教授および検察側鑑定人・鈴木廣一大阪医大教授の双方が「菅家氏の型と証拠の型は一致しない」との結論を出しました。高裁嘱託の統一見解としても「女児下着の体液のDNA型は菅家氏のものではない」と正式に認定されます。また当時の捜査員らのDNAとも合致せず、証拠試料が真犯人由来で間違いないことも確認されました。この時点で既に逮捕から17年以上経過しており、公訴時効(当時の殺人罪は15年)が成立して真犯人逮捕は法的に不可能となっていました。しかしもはや菅家氏が冤罪であることは明白であり、東京高等検察庁も「これは無罪を言い渡すべき明らかな証拠だ」と公式に認めます。
異例の釈放と再審無罪: 2009年6月4日、東京高検は再審開始を前提に菅家氏の刑の執行停止を決定し、菅家氏はただちに釈放されました。再審前に検察が自発的に受刑者を釈放するのは極めて異例の措置で、「有罪の根拠だった証拠が誤りと判明した以上、服役継続すべきでない」と判断したものです。釈放当日の記者会見で、菅家氏は涙ながらに「検察と栃木県警には謝罪してほしい」と訴えました。その言葉通り、後日宇都宮地検トップが直接謝罪し、同年10月には再審公判が開始されます。再審では取調べ時の録音テープも証拠提出され、検事・警察による取り調べ状況(自白強要の過程)が法廷で明らかにされました。担当検事だった森川大司氏は証人出廷しましたが「現在もなお菅家氏が真犯人と思うか」との問いに黙秘し、菅家氏への謝罪も一切ありませんでした。最終的に2010年3月、宇都宮地裁は菅家氏の無罪判決を言い渡します。判決主文では「当時のDNA鑑定には証拠能力がなく、自白も虚偽。菅家さんが犯人でないことは誰の目にも明らか」と高裁・最高裁の誤判を痛烈に指摘しました。判決後、裁判長は異例ともいえる謝罪の言葉を被告人に述べ、即日無罪が確定しました。長期の冤罪を経た菅家氏は、その後日弁連と共に国家賠償訴訟も検討しましたが、まずは「自分と同じ苦しみを二度と生まないため冤罪防止活動を優先したい」と語り、各地で講演を行うなど精力的に活動しています。
捜査関係者・マスコミ対応の問題点
足利事件がなぜ冤罪に至ったか、その背景には警察の捜査手法や証拠運用の問題、そして司法・報道の姿勢にも多くの問題点が指摘されています。
- 目撃証言の軽視: 本事件では、女児失踪当日に現場近くで不審な男と女児が歩く姿が複数目撃されていました。赤いスカート姿の女児を連れた中年男という具体的な証言で、実際その先の中州で遺体が発見されていることから極めて重要な手がかりでした。ところが警察は発生当初こそこの線を追ったものの、わずか半年ほどで捜査方針を転換し、不審男の割り出し捜査を打ち切ってしまいました。その理由は公式に明らかにされていません。この目撃情報自体、当時は公にされず「事件解決後」の近年になって取材報道で存在が暴露されたほどです。結果として警察は、本来追うべき真犯人の足取りを自ら途絶させてしまったのです。
- 不確実な鑑定への過信: 捜査が難航する中で、警察は犯人像を「独身男性で子供好き」という曖昧なプロファイリングに頼り、その条件に当てはまる人物(菅家氏)を絞り込むという近視眼的な手法を取りました。決め手となったDNA鑑定も、当時の技術的限界から精度が低く誤判定リスクが高いものでした。それにもかかわらず科警研鑑定を過信し「科学的証拠」として断定的に扱ったことが冤罪の温床となりました。菅家氏の再審無罪が確定した直後、多くの新聞社説が「DNA鑑定の過信は禁物」と警鐘を鳴らし、技術向上した現在でも鑑定結果を鵜呑みにせず慎重な検証が必要だと論じています。特に本事件同様の旧鑑定法で有罪が確定し、死刑執行までされた飯塚事件(1992年福岡県)の問題は由々しきものだ、との指摘もなされています。
- 自白偏重と強引な取り調べ: 警察の取調べでは前述のような違法すれすれの圧迫手法が用いられ、菅家氏は虚偽の自白をしてしまいました。しかし検察・裁判所とも、その自白調書の任意性や信憑性を十分吟味しませんでした。当時すでに菅家氏の自白内容と客観証拠との食い違いはいくつも明らかになっていました。例を挙げれば、菅家氏の調書では「女児を自転車の荷台に乗せて土手を下った」とありますが、その光景を見たという目撃証言は一切なく、そもそも女児発見現場は自転車では行けない中州でした。このように自白内容には不自然な点が多々あったにもかかわらず、捜査側は自白を引き出したことで安心し、矛盾を深追いしなかった節があります。さらに裁判でも、裁判官が自白の信用性を十分検討せず、「自白がある=有罪」と早合点したきらいがあります。菅家氏の再審を機に、日本でも取調べの全面可視化(録画録音)を求める声が高まりました。当時の法務大臣も当初は「捜査に支障」と消極的でしたが、その後2016年には一部事件で取調べの録音・録画が義務化されるなど、一歩前進が見られます(足利事件の教訓の一つと言えます)。
- 警察・検察の対応: 冤罪が明白になった後も、当局の対応には問題が指摘されました。釈放直後、当時捜査を指揮した栃木県警元刑事部長の森下昭雄氏は「まだ無罪が確定したわけではないし自供も得ている。私は今でも彼が犯人だと信じている」と発言し、直後に自身のブログが炎上・閉鎖に追い込まれる事態となりました。栃木県警も当初「暴行や自白強要はなかったと裁判で認定されている」とコメントし、防御的な姿勢を崩しませんでした。結局、県警は事件当時に授与された警察庁長官賞などの表彰4種類を自主返上するにとどまり、関係者の処分や真相究明は十分になされていません。裁判所も前述の通り誤判原因の検証に消極的で、冤罪被害者への公式な謝罪や説明責任は果たされていないとの批判があります。一方、被害女児の母親は「警察が菅家さんを無理に逮捕して以降捜査が止まった期間の分、時効は伸びるべきではないか」「誤った捜査なら謝るべきだ」と検察に憤りを訴えました。結果的にその訴えから4日後に菅家氏は釈放されています。このように捜査機関・司法の不誠実な対応は遺族や世論の不信を招き、冤罪が与える社会的損失を一層深刻なものにしました。
- マスコミ報道の姿勢: 足利事件当初、マスコミも警察発表を鵜呑みにし「犯行は菅家さんで間違いない」という論調でした。一部では「幼い子をパチンコに連れて行った親にも責任がある」といった遺族批判の論調すら報じられ、警察の捜査ミスよりも被害者側の問題に焦点を当てる傾向も見られました。また警察が公表しなかった目撃証言(真犯人に関する情報)について、メディアも深く追及できていませんでした。しかし2000年代後半から冤罪疑惑が報じられると流れが変わり、新聞・テレビ各社は競って再検証や批判報道を展開しました。特に再審決定後の社説では、「なぜ防げなかったか徹底究明せよ」「DNA鑑定に頼りすぎるな」「裁判所も誤判修正の機会を逃した」といった厳しい論調が相次ぎました。結果的に報道の後押しで再審無罪に至った面はありますが、本事件を通じてメディア自身も権力発表を鵜呑みにしない調査報道の重要性を再認識することとなりました。
浮かび上がった真犯人候補 – 「ルパン似の男」の謎
足利事件の冤罪が判明したことで、真犯人は誰なのかが改めてクローズアップされました。警察が早々に逮捕した菅家氏は無関係だったわけですから、では本当の犯人は? 実は事件当初から浮かんでいながら捨て置かれた“不審な男”の存在が、改めて注目されたのです。その男こそ目撃者が口々に証言した「ルパン三世に似た男」でした。

目撃証言と似顔絵: 女児失踪当日の1990年5月12日夕方、現場付近の運動公園にいた複数の目撃者(買物中の主婦、女性美術教師、ゴルフ練習中の男性等)が「赤いスカートの幼女と一緒に歩く中年の男」を目にしています。女児の服装(赤いスカートと白いシャツ)は非常に目立つもので、多くの人の記憶に残りました。中でも美術教師の女性は後に警察の聴取でスケッチを描き、テレビ取材でも同様の絵を提示しています。そのスケッチに描かれた男は長身痩せ型で身軽そうな中年男性でした。別の男性目撃者は「あんまり若くない、ひょろっとした感じ。そう、漫画のルパン三世にそっくりだった」と証言しています。アニメ『ルパン三世』の主人公ルパンは細身で俊敏な怪盗キャラクターですが、まさにそのイメージに酷似した風貌だったというのです。特徴としてはニッカボッカ(膝丈までのだぶだぶズボン)を履き、帽子にサングラス姿だったとも報じられています。実際、この怪しい男が幼女と歩いていた方向の先で遺体が発見されており、犯行への関与は極めて濃厚でした。
防犯カメラに映った姿: さらに6年後の1996年7月7日、隣接する群馬県太田市のパチンコ店で4歳の横山ゆかりちゃん失踪事件が発生します。この事件でも店内の防犯ビデオに、ゆかりちゃんに話しかけ店外に連れ出す男が映っていました。その男はサングラスに野球帽という姿で、防犯カメラ映像ながら体格や歩き方が足利事件の目撃証言の男と酷似していたのです。日本テレビの報道番組「真相報道バンキシャ!」では足利事件の目撃女性にこの映像を見せたところ、「自分が見た男とよく似ている」と証言しています。この1996年太田市の事件(横山ゆかりちゃん誘拐事件)は未だ未解決で、ゆかりちゃんは行方不明のままですが、足利事件と極めて共通点の多い事件でした。
北関東連続幼女誘拐殺人事件: 実は1979年から1996年にかけて、栃木・群馬の県境エリアでは幼女が連続して誘拐・殺害される事件が5件発生していました。4人の幼女が殺され1人(ゆかりちゃん)が行方不明という痛ましい事件群で、いずれも未解決です。清水潔記者はこれらを一連の「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と名付け、詳細を調査しました。5件の事件の共通項として、「狙われたのはいずれも4~8歳の少女」「うち3件で誘拐現場はパチンコ店」「3件で遺体発見現場は河川敷のアシ原」「週末・休日に発生」「泣き叫ぶ子供を無理やり連れ去る様子は目撃されていない(=子供が警戒せずついて行っている)」などが挙げられます。まさに手口が酷似しており、一人の犯人による連続犯行と見るのが自然な状況でした。
このうち4番目の事件が足利事件(1990年5月)でした。警察は足利事件については菅家氏を逮捕し「解決済み」と扱っていましたが、清水氏は「もし菅家さんが冤罪なら、5件全てが同一犯の連続事件となる。菅家逮捕後にも事件が続いているのはおかしい」という疑問を持ち、真相究明に奔走しました。
捜査線上の「ルパン」: 実は警察も当初、この「ルパンに似た男」を全く無視していたわけではありません。事件直後、前科者リストなどから不審人物の洗い出しを行い、何人かの男を重要参考人Aランクとして内偵していました。その中に目撃証言の男と犯行手口が酷似する前科持ちの男がいた――と、後に捜査関係者が証言しています。しかし逮捕に至る前に菅家氏のDNA鑑定が出てしまい、警察は労せずして「犯人」を得た形になったためか、初期の目撃情報もこれら容疑者リストも封印されてしまったのです。
清水氏は独自調査で当時の目撃証言者2人を探し当て、詳しく話を聞くことに成功しました。一人は上述の「ルパンそっくり」と証言した方、もう一人は別の目撃者ですが、この二人の証言から浮かんだ像は共通しています。また清水氏は北関東各地のパチンコ店を連日聞き込みし、「ルパン」と渾名される不審な中年男の存在に迫りました。その男は独身で、週末になると栃木・群馬の県境地域を移動しながらパチンコ店に現れては一日中遊技する人物でした。パチンコ店では地元の子供と顔見知りになり、手を繋いだり背負ったり、頬ずりする様子が何度も目撃されていたといいます。清水氏は地道な張り込み調査でついにその男の氏名・住所を特定し、直接本人に接触しました。
記者による本人直撃とDNA型一致: 清水記者は夜道で本人に声をかけ、自分が記者であること、過去の幼女誘拐事件を取材していることを伝えて質問を開始しました。突然の直撃にもかかわらず、男は1990年5月12日の足利事件当日の行動について問われると、「あの日は足利市の〇〇パチンコ店には行ったがよく覚えていない」などと矛盾する返答をしました。さらに「実は真実ちゃん(被害女児)と会って話したことがある」とも口を滑らせ、事件当日に現場のパチンコ店で被害女児と接点があったことを認めたのです。また横山ゆかりちゃん事件については、記者が詳細を言っていないにもかかわらず「その店には行ったことがない。あの店は出ないから」と即答し、「行ったことがないはずの店の出玉状況を知っている」というボロも出しました。尋ねてもいない事件当日の行動まで慌てて語るなど、男は明らかに動揺し混乱していたといいます。二つの事件現場(足利と太田)に居合わせ、全ての条件に合致するこの男こそ連続事件の犯人だとの確信を清水氏は深めました。
極めつけはDNA型の一致です。清水記者は「合法的で常識的な手段」でこの男のDNA試料を入手し、足利事件の弁護側鑑定人に極秘に鑑定してもらいました。その結果、追い続けてきた『ルパン』と足利事件の真犯人のDNA型が一致したのです。つまり科学的にも、この男が足利事件の犯人である蓋然性が非常に高いことが示されました。清水氏はこの衝撃的事実を2013年刊行の著書『殺人犯はそこにいる』の中で明かしています。なお菅家氏弁護団も独自に真犯人特定のためのDNAデータベース照合を提案しましたが、公訴時効成立を理由に警察は応じませんでした。
それでも逮捕されない理由: ここまで有力な容疑が浮上していながら、なぜこの「ルパン似の男」は逮捕されないのでしょうか。背景には捜査当局の事情があると指摘されています。清水氏や事件専門家の分析によれば、警察庁・栃木県警は「足利事件で正しい捜査が行われていれば横山ゆかりちゃん事件は防げた」という事実を絶対に認めたくないのだといいます。もし2つの事件の同一犯を認めれば、自らの失態(誤認逮捕で真犯人を野放しにした)が明白になり、警察の威信は大きく傷つきます。とりわけ足利事件では警察庁主導で当時最新鋭のDNA鑑定を導入し科警研に実施させた経緯があり、それが誤判を生み別の犯行を許したとなれば警察庁にとって大きな汚点です。「真犯人によってその後の事件が起きたなどとは絶対に認めたくないだろう」と清水氏は述べています。
さらに当局には“二つの爆弾”があるとも指摘されます。一つは足利事件、もう一つは前述の飯塚事件(1992年)です。足利事件の真犯人が捕まれば科警研のDNA誤鑑定が確定し、それは同じ手法で有罪・死刑執行された飯塚事件にも波及しかねません。つまり国家として再審不能な「死者の冤罪」が浮上するリスク(司法の信頼失墜)があるのです。こうした“爆弾”を抱えてまで真犯人を逮捕しようという決断をする人間が、官僚機構の中にいなかった――これが真犯人放置の真相ではないかと清水氏は推測しています。「北関東連続幼女誘拐殺人事件」は、この爆弾ごと闇に葬られようとしている、とまで厳しく評されています。
事実、2010年前後に有田芳生参議院議員らが国会で真犯人問題を追及し、当時の菅直人首相も「冤罪事件であり必要な対応を」と再捜査に含みを持つ答弁をしましたが、警察庁は「既に時効で公訴権がない事件」として本格捜査を行いませんでした。被害者遺族らは「共犯者が逃げていても起訴中は時効が止まる制度があるように、警察が真犯人の共犯者ではないかと思うほどだ」と怒りを滲ませています。つまり「誤認逮捕が犯人隠匿と同じ結果を生んだ」として、警察への強い不信と失望が残っているのです。
事件のその後と現在までの動向
再審無罪判決の影響: 足利事件は戦後日本の刑事司法における重大な冤罪事件となり、その教訓は様々な形で活かされています。冤罪発覚を受け、取調べの可視化要求や科学鑑定の精度検証など制度改革の機運が高まりました。警察庁と最高検はそれぞれ検証報告書をまとめ、DNA鑑定に過度に依存した点や自白偏重・証拠の偏った評価など問題点を洗い出しています(※報告書概要「足利事件における警察捜査の問題点について」警察庁2010年4月など)。また、栃木県警は自主的に表彰を返上した他、冤罪再発防止を誓うコメントを発表しました。検察も再審公判で異例の冒頭謝罪を行い「取り返しのつかない事態を招いた」と認めています。司法側も2014年に刑事訴訟法を改正し、証拠開示の拡大や録音録画制度の導入を進めました。足利事件での反省は他の冤罪疑惑事件(例えば布川事件、氷見事件など)の再審にも影響を与え、2010年代に複数の冤罪救済判決が相次ぐ一因ともなりました。
菅家利和氏の現在: 菅家氏本人は、2010年の無罪確定後に社会復帰し、冤罪当事者として精力的に発信を続けています。無罪判決翌月には足利市内で開かれた報告集会で謝罪を拒んだ関係者への憤りを語り、「刑事や検事、裁判官を全員実名公表して土下座させたい」と強い言葉で非難しました。その後は一転、「怒りは消えないが、自分の経験を語ることで冤罪を無くしたい」との思いから講演活動やメディア出演に応じています。2019年にはテレビ東京のドキュメンタリー番組に出演し、17年半の獄中生活で肉親を失った悲しみや受けた補償(金額約8000万円)について語りました。また日弁連の冤罪事件シンポジウムなどにも参加し、取調べ可視化の必要性を訴えています。菅家氏は現在79歳(2025年時点)になりますが、引き続き冤罪防止の社会運動家として活動を続けています。
真犯人捜査の停滞: 一方で、足利事件の真犯人問題は未だ宙に浮いたままです。菅家氏無罪後、警察庁長官は「捜査を再開する考えはない」と述べ、公訴時効を理由に公式な捜査を打ち切りました。栃木・群馬県警も独自の再捜査は行っていないとされています。ただし有志のジャーナリストや議員らは現在も真犯人を追跡し続けています。清水潔氏の著書『殺人犯はそこにいる』は大きな反響を呼び、2018年にはドラマ化もされました(WOWOW『連続ドラマW チェイス 第1章』は足利事件をモデルに真犯人捜査の闇を描いています)。また2022年のフジテレビ系ドラマ『エルピス-希望、あるいは災い-』でも足利事件を想起させる冤罪報道が題材となり、社会に問題提起しました。これらフィクション作品でも「権力が失態を隠蔽し真犯人を放置する」という構図が描かれており、本事件が残した教訓の大きさを物語ります。
終わらない遺族の思い: 被害者遺族にとって、犯人不明のまま時効を迎えたことは今も重い現実です。松田真実ちゃんのご遺族は、菅家さん冤罪判明時に「捜査が誤っていたなら謝るべき。警察は『真犯人の共犯者』とさえ言える。なのに『時効だ』で済ませていいのか」と憤りました。また「本当の犯人が捕まっていないのに事件が終わったことにされている」として、独自に情報公開請求を行うなど警察の姿勢を批判しています。足利事件で娘を亡くした母親は、冤罪が晴れた後に「ごめんなさいが言えなくてどうするの」と検事に諭したと言います。わずかながら、この言葉が届いたのか、4日後に菅家氏釈放という動きに繋がりました。しかし真犯人への責任追及が果たされない限り、事件は真の意味で解決したとは言えません。現在も有志による事件検証サイトやSNSで情報が共有され、「ルパン似の男」の動向を探る動きが続いています。
まとめ: 足利事件は、一人の無実の男性を17年半も獄中に繋ぎ止めただけでなく、真犯人を野放しにしたことで新たな犠牲者までも生んだ可能性が高い、非常に痛ましい事件でした。警察・検察・裁判所・マスコミそれぞれの問題が複合的に絡み合って生じた冤罪であり、日本の刑事司法の闇を象徴するケースとして語り継がれています。事件マニアの視点から見れば、捜査当局のメンツや制度上の限界によって真犯人が事実上“闇に葬られた”点は大きな衝撃と言えるでしょう。それでもなお清水潔氏らジャーナリストの記者魂によって真相の一端が白日の下に晒されたことは、せめてもの救いでした。足利事件が残した教訓は、「疑わしきは罰せず」という刑事司法の原点に立ち返ること、そして権力の失策を隠さず検証し再発防止に努めることの重要性です。未だ真犯人逮捕という完全解決は果たされていませんが、事件を風化させず検証し続けることが、真実の追及と冤罪防止につながると言えるでしょう。
参考資料: 報道機関による事件当時および再審時の報道pressnet.or.jppressnet.or.jp、日弁連や弁護士会の声明、清水潔『殺人犯はそこにいる』新潮社news-postseven.comnews-postseven.com、小林篤『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか?』草思社、宇都宮地裁再審判決文(2010年3月)、他多数の信頼できる情報源を参照し、上記事実関係を整理・考察しました。
ja.wikipedia.orgja.wikipedia.org(事件概要・逮捕)ja.wikipedia.orgja.wikipedia.org(DNA再鑑定・無罪判決)ja.wikipedia.orgenokidoblog.net(目撃証言「ルパン似の男」)enokidoblog.netenokidoblog.net(真犯人とDNA型一致)enokidoblog.netenokidoblog.net(警察の対応と隠蔽の指摘)


コメント