2003年1月25日深夜、群馬県前橋市三俣町の住宅街にあるスナック(酒場)で、暴力団員が拳銃を乱射し4名が死亡(うち一般市民3名)・2名が重傷を負った事件です。暴力団の抗争が原因で一般市民が巻き添えとなり複数死亡した初めてのケースであり、日本社会に大きな衝撃を与えました。犯行グループは指定暴力団住吉会系幸平一家※傘下の「矢野睦会」(会長・矢野治)所属の組員で、彼らは対立する暴力団幹部(元稲川会系組長A)の暗殺を狙って犯行に及びました。ところが標的以外の一般客を含む大惨事となり、犯行グループのメンバー3名(首謀者と実行犯2名)は後に逮捕・起訴され、全員に死刑判決が言い渡されています。本記事では、この事件の背景にある暴力団抗争や犯人像、事件後の捜査と社会の反応について詳しく解説します。
※住吉会幸平一家: 住吉会は東京都に本部を置く日本有数の指定暴力団で、山口組・稲川会と並ぶ巨大組織。その二次団体である「幸平一家」は主に首都圏で活動する下部組織です。
事件の背景と発端:抗争に至る経緯
この乱射事件の背景には、住吉会と稲川会という二大暴力団の対立抗争がありました。発端は2001年8月15日、東京都葛飾区の四ツ木斎場で行われていた住吉会系組員の通夜に、稲川会系大前田一家の組員が乱入し発砲、住吉会幹部2名が射殺された「四ツ木斎場事件」です。本来、ヤクザ社会には「義理事(ぎりごと)」と呼ばれる葬儀や法要の場では抗争を起こさないという不文律のタブーがあります。しかし稲川会側はその禁を破って襲撃を実行したため、住吉会側は激しく反発しました。
四ツ木斎場事件後、稲川会は住吉会との手打ち(和解)条件として、引責処分を行います。直系組長1名の引退や、大前田一家の解散、さらに襲撃を指示した大前田一家総長Bとその系列組長A(本事件の標的)を絶縁(組織からの永久追放)処分にし、住吉会に謝罪しました。一応の和解は成立したものの、矢野睦会(住吉会幸平一家傘下)の面々はこの決着に納得しませんでした。警察の捜査が稲川会本部にまで及ばず、しかも絶縁処分となったはずの元大前田一家総長Bや元組長Aが、その後も地元の群馬県前橋市で活動を続けていたからです。矢野睦会は「処分されたとは名ばかりで、結局のうのうと地元で勢力を保っている」と感じ、手打ち後も密かにAとBへの報復機会を窺い続けました。
こうして水面下で抗争は継続し、矢野治会長率いる矢野睦会は報復作戦を開始します。2002年2月から3月にかけて、Aの元上司であるBの自宅に爆弾を仕掛けたり銃撃したりといった襲撃を繰り返しましたが、いずれも失敗に終わりました。さらにこの最中、矢野睦会の幹部Cが警察へ自主しようと動いていることが発覚します。組織の内部情報が漏れることを恐れた矢野会長らは、同年2月24日に豊島区の路上でCを襲撃して負傷させ、翌25日には入院先の日本医科大学附属病院ICUにまで押し入りCを射殺するという凶行に及びました(日医大ICU事件)。自派組員ですら口封じのために殺害するという手段から、矢野会長の執念深さと過激さが窺えます。
その後も矢野睦会による報復計画は続行されました。Bへの襲撃が警戒厳重で困難なため、矢野会長は標的を元組長Aに切り替え、狙撃の機会を狙います。しかし2002年10月、実行部隊の一人である小日向将人(後述する実行犯K)が移動中に交通事故に遭い重傷(鎖骨骨折など)を負ったため計画は一時頓挫します。小日向を欠いた状態で同年10月14日に決行されたA襲撃では、Aに重傷(右肩負傷)を負わせるに留まり殺害には至りませんでした。さらに翌2003年3月1日にはB宅への火炎瓶攻撃も試みましたが不発に終わっています。矢野会長は11月頃にも「Aが出入りするキャバクラ店で機関銃を乱射し暗殺する」という大胆な計画を立てましたが、当日にA本人が現れず失敗しました。こうした度重なる未遂の末、矢野会長はAが常連として通う前橋市内のスナックを襲撃現場に選定し、遂に凶行に及ぶ決断を下すことになります。
犯人の人物像:経歴・人間関係・動機
主犯の矢野 治(やの おさむ)は住吉会幸平一家矢野睦会の会長で、本事件の黒幕です。矢野会長自身は発砲していないものの、若手組員たちに具体的な指示を与え一連の抗争を主導しました。犯行の動機は前述の通り「暴力には暴力で対抗し相手を抹殺する」という報復心であり、裁判所も「最も憎むべき犯行動機」と厳しく非難しています。矢野会長は情け容赦ない性格で、報復のためなら手段を選ばず、自分の組織内の裏切り者すら射殺する冷酷さを見せました。一方で組員からの信頼やカリスマ性も強く、若い頃の小日向将人(実行犯K)は矢野会長を「男気ある親分」と感じて慕っていたといいます。小日向が17歳で矢野組にスカウトされた際、矢野は両手の小指が欠損しているのを見せて「見ろ、まだ指が8本ある。もしお前が間違いを犯したら俺が自分の指を詰めてケジメをつけてやる。心配するな、好きにやれ」と豪快に言い放ち、「今日から俺のことを親父(おやじ)と呼べ」とまで告げたそうです。当時少年だった小日向は「自分にここまで言ってくれるなんて、なんと男らしい人だろう」と感激し、「この人について行こう」と決心したといいます。こうしたエピソードからは、矢野会長が部下を惹きつける豪胆さと、極道の仁義(※もっとも本件ではその仁義が暴走したわけですが)を体現する人物だったことが伺えます。
実行犯の小日向 将人(こひなた まさと)死刑囚(犯行当時30歳前後)は、矢野睦会の若手組員でした。上述のように10代で矢野組に入り、組長付き運転手や用心棒として頭角を現した「武闘派ヤクザ」です。小日向自身にとって、本事件の直接の動機は組織への義理と報復の使命感でした。彼は「親父」と慕う矢野会長からの命令に忠実に従い、敵対組織への襲撃に深く関与していきます。実際に乱射事件当夜も、矢野会長から「標的Aが店に入った」との連絡を受けて現場に急行し、襲撃を遂行しました。犯行時の小日向は仲間とヘルメットを被って店に押し入るなど計画的でしたが、予想外に多数の客がいたことで混乱し、結果的に無関係の一般客を次々と射殺してしまいます。この点について裁判では「店内でいきなり十数発を乱射した無差別テロに等しい行為で、市民を巻き添えにした極めて冷酷・残虐な犯行」と断じられました。
逮捕後の小日向は、捜査に協力して事件の全容解明に貢献しつつ、次第に自らの犯した罪の重大さに向き合うようになります。獄中でキリスト教の洗礼を受け、被害者供養のために手記を記すなど精神的に大きな変化が見られました。彼が著した獄中手記『死刑囚になったヒットマン』によれば、小日向は「ヤクザの世界からすっかり足を洗い、報復のために事件を起こしたことを深く反省し、被害者やご遺族に謝罪し、亡くなった方々のため毎日祈っている」と述べています。極道社会に染まり一般人殺害という取り返しのつかない過ちを犯した自分への悔恨の念と、被害者への謝罪の気持ちが日々綴られており、「二度と同じ悲劇を繰り返してはならない」という強い思いが感じられます。
犯人と暴力団組織との関係
本事件の犯行グループと標的との関係性を整理すると、住吉会 vs 稲川会の構図が浮かび上がります。実行犯たちは住吉会系の下部組織である矢野睦会のメンバーで、組織的背景には住吉会全体と稲川会との対立抗争がありました。住吉会は首都圏を本拠とする日本第二の規模の暴力団組織であり、一方の稲川会も関東を中心に勢力を持つ有力組織です。事件の標的となった「元組長A」とは、元稲川会系大前田一家の幹部でした。彼は前述の四ツ木斎場事件に関与した咎で一応は稲川会から絶縁されていますが、その後も地元前橋で活動を続けていた人物です。言い換えれば、住吉会の下部組織が稲川会の元幹部を狙った抗争であり、まさに両組織間の縄張り争いや怨恨が直接の引き金でした。
一方で、日本最大の暴力団である山口組は本抗争には直接関与していません。山口組は関西圏を基盤に全国展開する巨大組織ですが、当時この前橋での抗争は主に関東の二大勢力(住吉会と稲川会)の間で起きたものでした。もっとも、2000年代当時は山口組も首都圏への進出を強めており、関東の既存組織との緊張関係はありました。しかし前橋スナック乱射事件そのものは、山口組ではなく住吉会系グループの内部主導による局地的な抗争劇だったと言えます。
犯人グループの組織内での立ち位置にも触れると、矢野治会長(YO)は住吉会幸平一家の中でも武闘派勢力を率いる組長であり、トップからの信頼と同時に暴走も許してしまった人物でした。実行犯の小日向(K)やもう一人の組員YK(実行犯の共犯者)らは矢野の指示のもと動く子分の立場です。矢野会長が「親分」、小日向らが「子分」という主従関係で結ばれ、組織ぐるみの犯行が行われたのです。実際、四ツ木斎場での住吉会幹部射殺というタブー破りに対し、住吉会は一時「全組織をあげて戦争の準備」を始めたとも言われています。その後いったん和解が成立したとはいえ、矢野睦会のように独自行動に走った下部組織もあり、結果的に組織内の統制が利かないまま凶行が引き起こされてしまいました。
事件後の捜査と暴力団への影響
事件発生直後の捜査は難航しました。犯行グループは周到に準備し、実行犯2名はヘルメットやオートバイで素早く逃走して足取りをくらませたためです。事件4日後には矢野睦会幹部のFが警察に出頭し「自分が撃った」と供述する動きもありましたが、実際には実行犯ではなく身代わりを名乗り出た疑いが強く、供述も二転三転したため信憑性がありませんでした(Fは物証不十分で釈放)。その後、警察は地道な捜査を続け、犯行現場付近に落ちていた眼鏡のDNA鑑定や関係者の割り出しなどから矢野睦会会長の矢野治(YO)と組員の小日向将人(K)およびYKを容疑者として特定します。Kこと小日向は一時フィリピンへ逃亡しましたが現地当局に拘束され、2003年末に日本送還され逮捕されました。YKも全国指名手配の末、2004年5月に鹿児島市内で潜伏中のところを確保されています。首謀者の矢野治も含め、2004年までに主要な容疑者が全員逮捕され、事件は解明へと向かいました。
司法の判断も極めて厳しいものでした。実行犯2名(小日向将人とYK)および首謀者矢野治の3名全員に死刑判決が言い渡され、確定しています。判決では「市民を巻き添えにした無差別乱射は極めて悪質」「暴力には暴力で対抗し相手を抹殺しようとする犯行動機は憎むべきもの」と断罪されました。特に小日向とYKの両名については「一般客がいるとは認識していなかった」と弁護側が情状を求めましたが、「協力して事件解明に努めた事情を考慮しても死刑は免れない」「冷酷・残虐な犯行で地域社会に与えた影響は計り知れない」と最高裁で退けられています。結果、3名とも死刑が確定し、極めて異例な複数死刑囚を出す暴力団抗争事件となりました。
捜査当局と社会は、この事件を契機に暴力団への取り締まりを一層強化しました。群馬県警はもちろん、全国の警察が暴力団の武力抗争に対する警戒を強め、拳銃の摘発や暴力団事務所への家宅捜索が相次ぎました。また暴力団の組織的責任を追及する動きも見られます。2006年には被害者遺族が矢野治・小日向・YKの3名および住吉会の総裁・会長ら組織幹部を相手取り、約2億円の損害賠償を求める民事訴訟を起こしました。前橋地裁は翌2007年、矢野治とYKに対し約8200万円の賠償支払いを命じ、組織側の責任も一部認める判断を下しています(※住吉会幹部らについては詳細不明ですが、少なくとも実行犯側の賠償責任が認定されました)。このように、暴力団抗争であっても組織ぐるみで引き起こされた被害については、組織的・民事的な責任追及がなされる前例となりました。
さらに、事件後の矢野睦会を含む関係組織への内部処分・影響も無視できません。稲川会側は四ツ木斎場事件の際に自派幹部を処分しましたが、住吉会側でもこの前橋事件で世間を騒がせたことで組織イメージの失墜は避けられず、結果的に矢野睦会会長である矢野治自身が組織から切り捨てられる形となりました。矢野は逮捕後、死刑判決が確定して収監中の2020年1月に東京拘置所内で自殺し死亡しています。その直前には、自ら過去の未解決殺人を告白するなどの奇行も見せましたが(裁判では虚偽の供述と判断され無罪)、いずれにせよ矢野治という人物は公の場に姿を現すことなく生涯を閉じました。一連の抗争を主導した人物が自死したことで事件は幕引きとなり、矢野睦会も事実上崩壊。住吉会幸平一家全体にも大きな痛手となり、その後の組織勢力にも影響を与えたとされています。
社会の反応と暴力団に対する世論の変化
前橋スナック銃乱射事件は、日本社会における暴力団に対する見方を大きく変える転機になりました。元々、暴力団同士の抗争は「一般市民には手を出さない」「抗争は身内同士で片付ける」という暗黙の了解があると信じられてきた面がありました。しかし本事件では3人もの無関係の市民が犠牲となり、その神話は完全に崩壊しました。「前代未聞の凶悪事件」として大きく報道され、犠牲者遺族や市民からは「許せない」「悲しみは消えない」といった怒りと悲嘆の声が相次ぎました。葬儀の場や繁華街のスナックといった公共の空間で平然と銃撃戦が行われた事実は、人々に強い不安感を与え、暴力団の存在自体への批判が高まりました。
この事件以降、暴力団に対する世論は一段と厳しさを増していきます。事件当時の2003年前後は、ちょうど警察が暴力団排除条例の整備や暴力団の資金源対策を本格化させ始めた時期とも重なります。市民社会でも「暴力団は百害あって一利なし」との認識が広がり、暴力団関係者との交際禁止や企業による反社会的勢力排除の動きが強まりました。前橋の事件報道に接した人々の中には、「もう任侠だの仁義だのといった美談は通用しない」「一般人を巻き添えにする連中を絶対に許してはいけない」という意見が多く聞かれました。暴力団に対する幻想や黙認の態度は薄れ、むしろ断固排除すべき犯罪集団という認識が定着していったのです。
報道面でも、以前は暴力団抗争は社会面の一ニュースとして扱われることが多かったのが、本事件以降は市民生活への脅威として大きく報じられるようになりました。事件から約半年後の2003年夏には六本木で一般客が巻き添えになる発砲事件(山口組系と住吉会系の抗争)も発生し、続発する市民巻き添え事案に社会の危機感は高まります。こうした流れの中で、2000年代後半には全国で暴力団排除条例が施行され、企業や自治体が暴力団との絶縁を宣言するなど、法的・社会的に暴力団の影響力を削ぐ取り組みが強化されました。
まとめると, 前橋スナック銃乱射事件は「暴力団抗争が生んだ市民大量殺害事件」として歴史に刻まれ、その衝撃は犯行グループや関係組織への厳正な処罰だけでなく、日本社会全体の暴力団観にも大きな転換をもたらしました。犯人たちは極刑に処され、組織も大きな打撃を受け、そして何より市民の暴力団への眼差しは一層冷ややかなものとなったのです。暴力団の抗争がどれほど無関係の人々の人生を奪い得るか——その現実を突きつけた本事件を風化させず、今後の暴力団排除と市民の安全確保への教訓としていくことが求められています。
Sources / References:
- 前橋スナック銃乱射事件 – Wikipediaほか
- 文春オンライン 『死刑囚になったヒットマン』(実行犯・小日向将人死刑囚の手記)より
- テレビ朝日ニュース「2003年 前橋スナック銃乱射事件で4人殺害の小日向将人死刑囚(56)が死亡」
- 裁判傍聴記録(前橋地裁・東京高裁・最高裁判決要旨)
- 毎日新聞・産経新聞(事件当時の報道、遺族コメントなど)



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