映画『凶悪』のモデル「上申書殺人事件」とは?その残虐性と首謀者の素顔

不可解・不審死事件

事件概要:暴かれた連続殺人の真相

1999年前後に茨城県で起きた上申書殺人事件(茨城上申書殺人事件)は、映画『凶悪』のモデルとなった実在の連続殺人事件です。事件名の「上申書」とは、後藤良次死刑囚(元暴力団組長の男G)が自ら関与した未解決殺人について検察に提出した書面を指します。この死刑囚Gは控訴中に自分が関わった複数の事件(殺人2件と死体遺棄1件)を詳細に記した上申書を提出し、自身が「先生」と慕う不動産ブローカーXこそが3件の殺人事件の首謀者だと告発したのです。この衝撃的な告白に基づき雑誌『新潮45』編集部が独自取材で真相を暴き、2005年にそれを報じたことで世間の注目が集まりました。結果、Xが関与したとされる殺人の一つが改めて立件され、事件はようやく表沙汰になります。

上申書殺人事件で暴かれたのは、3件もの凶悪な殺人でした。いずれも高齢者を狙った犯行で、土地や保険金など金銭目的で命が奪われています。犯行グループには複数人が関与し、それぞれに複雑な主従関係や思惑が絡んでいました。犯罪は長期間にわたってひそかに重ねられ、周囲も沈黙を保ったため、事件は深く闇に潜んでしまっていたのです。「なぜ誰も止められなかったのか?」と思わずにいられないほど、冷酷で異常な実態がそこにはありました。

“先生”と呼ばれた主犯の人物像:冷酷なる黒幕X

上申書で死刑囚Gが名指しした首謀者Xとは、三上静男という男でした。Gが「先生」と呼んで崇拝するその人物は一見温厚な不動産ブローカーで、表向きは教育者の顔も持ち周囲から信頼されていたといいます。しかしその正体は、金のためなら人の命すら躊躇なく踏みにじる冷酷非道な人物でした。三上は裏社会とも結びついて暗躍し、悪辣な手口で巨額の利益を貪っており、「闇の錬金術師」とあだ名されるほど金への執着が異常だったと伝えられます。例えば、事件を起こすたび実行犯のGに報酬を支払うと約束しながら、Gが別件で逮捕・勾留されるやその約束を反故にしたこともありました。さらにGの舎弟が自殺した際には、その遺産をすべて処分して自分の懐に入れるなど、常識や良心の欠片もない行動で周囲を戦慄させています。こうした自己中心的で目的のためには手段を選ばない姿は、典型的なサイコパスとも指摘されています。

一方、死刑囚G(後藤良次)の側にも触れておきましょう。Gは10代から非行と暴力に明け暮れ、16歳で暴力団員となり、壮年期には自ら組を持った元ヤクザでした。荒んだ人生を送りながらも家族や子分を思う情も持ち合わせ、犯罪への一抹の良心からか自ら罪を告白する一面もあったといいます。そんなGが40歳の頃、「堅気の世界で成功したい」という望みから紹介されたのが三上でした。社会常識に疎いGにとって、正業で大金を稼ぐ三上は眩しく映り、自分を更生させてくれる恩人のように感じたのです。三上もGに金銭面で援助を施し、面倒を見て取り入っていきました。こうして二人の間には明確な主従関係が築かれ、Gは「先生」と仰ぐ三上の指示で殺人の実行役となっていったのです。しかし、裏では三上にいいように利用されていただけでした。約束の報酬を踏みにじられ舎弟の無念まで弄ばれたことで、Gは遂に師と仰いだ男に裏切られたと悟ります。その怒りと復讐心が、獄中からの衝撃告発へと彼を駆り立てたのでした。三上という男の実像は、表では紳士を装い影では暴力団を手足に犯罪を重ねる狡猾な策士であり、Gという凶暴な駒すら掌で操っていた狂気の人物だったのです。

被害者に降りかかった残虐な末路

この事件の被害者となったのは、いずれも社会的に弱い立場に置かれた人々でした。犯人グループは身寄りが乏しく頼れる相手の少ない高齢者を標的に選び、巧みに近づいて信頼を得た上で財産を奪おうとしました。共犯者が被害者の「家族」を装って介護施設に同行したり、身元保証人になるなどして取り入る周到さで、人の善意を逆手に取ったのです。しかし、そうして罠にかけられた被害者を待っていたのは想像を絶する残虐な最期でした。以下に、明らかになった3つの殺人事件の概要とその手口を見ていきましょう。

  1. 石岡市焼却事件(1999年11月中旬) – 三上は金銭トラブルになった60代の男性・大塚氏を絞殺し、後藤と共に遺体を運び出しました。遺体は三上の経営する茨城県石岡市内の会社敷地にある焼却炉で燃やされ、証拠隠滅が図られます。発見された遺骨は炭化して身元特定ができないほどで、被害者のフルネームすら分からない状態でした。死体をバラバラに切断して焼却炉に詰め込むという凄惨極まる行為に及んだとも伝えられています。犯人たちは焼却中、被害者の腕から高価な腕時計を外して炉に投げ捨てる余裕すら見せたといいます。人間の命と痕跡を文字通り灰にして消し去った冷酷非道な犯行でした。
  2. 北茨城市生き埋め事件(1999年11月下旬) – 後藤は埼玉県大宮市に住む70代の資産家男性・倉浪篤二さんを茨城県水戸市内の駐車場で拉致し、そのまま三上の所有する北茨城市の土地へ連行しました。男性は手足を縛られたまま生きたまま穴に放り込まれ、土砂をかけられて窒息死させられました。犯行の目的は被害者が持つ土地の強奪です。三上は殺害後すぐにその土地の登記名義を自分に書き換え、転売して莫大な土地代金(推定7000万円)を手に入れていました。このとき犯人たちは、抵抗する老人の恐怖に歪む顔を見て嘲笑い、「そんな顔で見られると興奮するな」とまで言い放ったとされています。まさに悪魔の所業であり、被害者は最期の瞬間まで味わったであろう恐怖と無念を想像すると胸が張り裂ける思いです。
  3. 日立市ウォッカ事件(2000年7月~8月) – 三上は茨城県阿見町のカーテン店経営者だった67歳の男性を標的に定めました。この男性には糖尿病と肝硬変の持病があり、多額の生命保険が掛けられていました。経済的に追い詰められていた被害者の妻子から「保険金が下りれば借金を返せる」という相談を受けた三上は、共犯の家族ぐるみで保険金殺人計画を企てます。2000年7月中旬から約1ヶ月以上にわたり、後藤らは被害者男性を監禁し、大量の酒を毎日のように無理やり飲ませ続けました。高濃度アルコール(90度のスピリタスウォッカ)を点滴のように流し込み、苦しむ被害者を見て加害者たちは嘲笑って楽しんでいたといいます。男性が「死にたくない」と泣きながら家族に電話すると、なんと実の家族は「もっと酒を飲ませてください」と加害者に指示したと伝えられています。極限まで痛めつけられた男性は8月中旬についに死亡し、加害者たちは遺体を山中の林道に遺棄して車ごと転落事故に見せかけました。警察は当初これを病死・事故死として処理しますが、後に保険金の不自然な受取に捜査のメスが入り、隠された殺人が露見しました。愛する家族にまで裏切られて命を奪われた被害者の無念さを思うと、言葉を失うほどの悲劇です。

以上のように、被害者たちはいずれも計画的かつ残酷な方法で殺害されていました。首謀者の三上は自ら手を下さず配下に行わせる狡猾さで罪を隠蔽しようとしましたが、死刑囚Gの告発によってこの闇はついに暴かれました。とはいえ皮肉にも、3件のうち司法の手で裁かれたのは、遺体という動かぬ証拠が残っていた「日立市ウォッカ事件」ただ1件のみでした。他の2件は被害者の遺体も特定もできず立件を断念せざるを得なかったため、闇に葬られたままとなっています。この事実は、加害者たちの用意周到さと犯罪の冷徹さを物語ると同時に、正義が必ずしも完璧に果たされない現実の無情さを突きつけています。

映画『凶悪』での描写と実際の事件の違い

2013年公開の映画『凶悪』は、以上の事件をもとにしたノンフィクション小説『凶悪-ある死刑囚の告発-』を原作としています。基本的な物語の骨格(死刑囚の告発によって隠された連続殺人の真相が暴かれ、首謀者逮捕に至る過程)は事実に忠実に描かれており、その生々しさが観る者に衝撃を与えました。しかし、映画ならではの脚色や演出上の違いもいくつか存在します。ここでは主な相違点を整理してみましょう。

  • 視点と構成の違い:映画では山田孝之さん演じる雑誌記者が主人公となり、死刑囚からの告発の手紙をきっかけに独自調査で真相に迫る構成になっています。緊迫感ある記者視点のミステリー仕立ては映画的な盛り上がりを生みましたが、実際の事件発覚は記者主導ではなく、死刑囚Gが直接捜査機関に提出した上申書によるものです。現実では告発を受けた検察・警察が再捜査し、新潮45記者は取材を重ねた末に記事化したという流れであり、映画のように記者が単独で糸を手繰って事件を解決に導いたわけではありません。この違いは、観客に臨場感を持ってドラマを追体験させるための映画的演出と言えるでしょう。
  • 人物描写の違い:映画に登場する「先生」こと木村孝雄(リリー・フランキーさんが怪演)は、不気味なほど静かな口調ながら周囲を完全に支配する強烈な悪役でした。実在の三上静男も同様に首謀者的立場の人物でしたが、映画ではそのキャラクター性をわかりやすく誇張し、絶対的な主従関係が強調されています。現実の事件では犯人たちの関係性はもう少し複雑で曖昧な部分もあったようですが、映画では2時間弱の中で伝えるために明確な主従構図に整理されている印象です。また、元暴力団員の須藤純次(ピエール瀧さんが演じた死刑囚役)の描写も、実在の後藤良次をモデルにしつつドラマ性を持たせるため多少の脚色が加えられています。例えば、死刑囚が告発した動機について、現実には「自身の裁判を有利にするため」という思惑も指摘されましたが、映画では「裏切った先生への復讐心」に重きを置いて描かれていました。こうした人物像の演出面での違いはありますが、それでも根底にあるのが実話ゆえに、終始ただならぬリアリティが漂っていました。
  • 被害者描写の違い:映画『凶悪』では加害者側の狂気に焦点を当てるため、被害者たち個々の描写は意図的に抑えられています。名前や背景は具体的に語られず、「被害者A」「老人」など記号的な存在として描かれるのみでした。これは実在する遺族への配慮や法的リスクを考慮した措置とも考えられますが、結果として観客は詳細が語られない分、想像で補完してより不気味な余韻を味わう仕掛けにもなっています。現実の事件では前述したように高齢者の孤独や加害者との複雑な信頼関係の悪用といった背景がありますが、映画はあえて社会問題的な掘り下げをせず、人間の狂気そのものを描くことに徹したと言えるでしょう。
  • 結末と裁きの違い:映画のクライマックスでは、記者の奮闘により警察が動き出し、保険金殺人(ウォッカ事件)に関わった家族ら共犯者と「先生」木村孝雄が逮捕される様子が描かれました。しかし掘り起こされた土地から遺体は発見されず、焼却炉の事件も証拠不十分のため、結局立件できたのは保険金殺人事件のみという悔しさが示されます。映画でもその点は事実に即しており、木村(=三上静男)は無期懲役に、告発者である須藤(=後藤良次)も自身の罪で死刑が確定したままという現実同様の結末が語られます。フィクションであってほしい展開ですが、裁かれたのは一部のみで完全な正義は果たせなかったという現実の苦味を映画も忠実に再現していました。

総じて、『凶悪』はモデルとなった上申書殺人事件の骨太な事実関係をほぼ忠実に描きつつ、観客に訴えるための演出を随所に加えた作品と言えます。だからこそ鑑賞後に「これは本当にあった話なのか…」という戦慄が押し寄せ、胸がざわついて眠れなくなるような強烈な体験を残すのです。

終わりに – 凶悪な現実が問いかけるもの

映画『凶悪』を通じて描かれた上申書殺人事件の真実は、フィクションを超える人間の闇そのものでした。画面越しに伝わる狂気と暴力の数々が、実際にこの社会で起きた出来事なのだと知ったとき、誰もが言葉を失うでしょう。長期間にわたり複数人が関与しながらなぜ誰もこの惨劇を止められなかったのか――その問いは観る者の胸に突き刺さり、容易には消えてくれません。被害者たちが味わったであろう恐怖と絶望を思うと胸が痛みますし、加害者たちの人間離れした冷酷さに背筋が凍ります。観客として私たちは、苦しく不快であっても目を背けることができず、人間の暗部を直視させられるような感覚に陥ります。それこそが「実話を描く」ことの持つ圧倒的な力なのかもしれません。

映画ファンの皆さんにとって、この事件の背景を知ることは作品への理解を一層深める手がかりになるでしょう。狂気の中で翻弄された加害者と被害者のリアルな人物像、その背後にある社会の影を知れば、『凶悪』の一つ一つのシーンが違った重みを持って迫ってくるはずです。残酷な現実を知ることは決して楽なことではありません。しかし、事実を直視し記憶することが、犠牲となった方々への唯一の手向けでもあるのではないでしょうか。目を覆いたくなる惨劇であっても、その物語に耳を傾けることで、私たちは人間の愚かさと罪深さ、そして社会の在り方について深く考える機会を得ます。現実の闇を描いたこの映画と事件は、エンターテインメントを超えて観る者の心に深い問いかけを残します。どうか皆さんも、この悲劇から目を背けずに受け止めてください。そして二度と同じような凶行を繰り返さないために、私たちに何ができるのかを共に考えていければと思います。映画のエンドロールが流れた後も、現実に起きた惨劇の余韻は消えません。その事実を心に刻み込みながら、作品と向き合ってみてください。きっと、観る前とは違った何かが胸の内に生まれていることでしょう…。

コメント

タイトルとURLをコピーしました