津山事件~好青年が無敵の人になるまで~

凶悪事件

序章:津山事件の概要と本報告の目的

津山事件、または津山三十人殺害事件は、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現在の津山市加茂町行重)の貝尾および坂本部落で発生した、日本犯罪史上稀に見る大量殺人事件である。この事件は、犯人の名前から「都井睦雄事件」とも称される。犯人である都井睦雄(当時22歳)を含め、合計31人が死亡し、3人が軽重傷を負ったというその規模と残虐性から、社会に甚大な衝撃を与えた。

本事件は、その特異な性質ゆえに、横溝正史の小説『八つ墓村』をはじめとする多くのフィクション作品の着想源となり、映画や電子ゲームなど、その後の日本の大衆文化にも大きな影響を与え続けている。事件の記憶は、単なる歴史的記録に留まらず、物語として語り継がれることで、人々の心に深く刻まれている。

本報告は、この津山事件の全体像を深く解明することを目的とする。具体的には、犯人である都井睦雄の生涯を詳細に辿り、事件発生に至るまでの心理的・社会的な背景を掘り下げる。次に、津山三十人殺害事件の具体的な経緯と被害状況を詳述し、その残虐性と計画性を明らかにする。そして、事件の多角的な考察を通じて、個人の精神状態、当時の閉鎖的な村社会の構造、および戦時下の時代背景がどのように複合的に作用し、この悲劇が引き起こされたのかを深く分析する。また、事件が地域社会に与えた影響、メディア報道のあり方、そして現代社会における本事件の教訓と示唆についても論じることで、過去の悲劇から未来への学びを導き出すことを目指す。

第1章:都井睦雄の生涯と事件に至る背景

都井睦雄の生涯は、彼の内面的な葛藤と、当時の社会環境、特に閉鎖的な村社会の構造が複雑に絡み合い、最終的に前代未聞の悲劇へと繋がった経緯を浮き彫りにする。

生い立ち、家族構成、幼少期

都井睦雄は1917年に岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現在の津山市加茂町倉見)で生を受けた。彼の幼少期は、両親が早くに肺結核で他界するという不幸に見舞われた 2。その後、都井と彼の姉は祖母の手によって育てられることとなる。6歳の時、一家は祖母の故郷である貝尾村へと転居した。この貝尾村は、周辺の村落の中でも特に山奥に位置し、車両の通行が困難な山道が続く、極めて閉鎖的な地域であった。このような環境は、都井の人間形成に少なからず影響を与えたと考えられる。

都井家は比較的裕福であり、都井自身は体が弱かったため、祖母の厳しい管理下で育てられた。同年代の子供たちより1年遅れて尋常小学校に入学したが、祖母に甘やかされる傾向があったため、しばしば学校を欠席することもあった。しかし、その一方で成績は非常に優秀であり、担任教師は彼の学習能力に才能を見出し、旧制中学への進学を強く望んでいた。だが、祖母の強い反対により、都井はそれ以上の学業を続けることはなかった。この進学断念は、彼の将来の選択肢を狭め、内面的な不満を蓄積させる一因となった可能性がある。

学歴と健康問題(徴兵検査不合格の影響)

尋常小学校卒業後、都井は胸膜炎を患い、医師から畑仕事が禁じられたため、日々の生活を怠惰に過ごすようになる。病状が改善した後、補習学校(後の青年学校)に入学したが、姉が結婚して家を出てからは、学業への興味を完全に失い、ますます家に閉じこもるようになった。この時期の孤立は、彼の内面世界をより閉鎖的なものへと導いたと考えられる。

事件前年である1937年、都井は徴兵検査を受けるが、ここで肺結核と診断され、丙種合格(実質的な不合格)という結果を突きつけられる。当時、日中戦争の真っ只中であり、徴兵検査は国民にとって当然の義務であり、兵隊になることは男性にとっての社会的価値や男らしさの象徴とされていた。都井自身も兵隊になることを強く望んでいたため、この不合格は彼にとって計り知れない「不名誉な結果」であった。

この徴兵検査不合格は、都井の自己肯定感を深く傷つけただけでなく、彼の人間関係、特に女性関係に決定的な影響を及ぼした。当時の社会では、女性は甲種体位の男性を非常に崇拝する風潮があり、都井と密通していた女性たちは、彼の丙種体位や結核を理由に彼との関係を拒絶するようになったのである。この一連の出来事は、彼の自尊心をさらに深く傷つけ、彼が抱いていた女性たちへの恨みと殺意を増幅させる決定的な引き金となった。徴兵制度という国家的なシステムが、個人のプライベートな人間関係にまで深く介入し、その破綻を通じて個人の精神状態を極限まで追い詰めていくという、当時の社会構造の負の側面が、都井のケースを通じて鮮明に浮かび上がる。個人の健康問題が、社会的な評価や異性関係に直結する閉鎖的な村社会の特性が、彼の精神状態を一層悪化させたのである。

人間関係と地域社会での孤立

貝尾村は山奥の閉鎖的な集落であり、古くからの「夜這い」の風習が残っていた。都井は若く、家柄も良かったため、近隣の女性たちとの間に多くの密通があったとされる。しかし、徴兵検査不合格後、彼と関係を持っていた女性たちが彼を拒絶するようになると、都井は彼女たちに対して強い敵意と殺意を抱くようになった。姉が結婚して家を出てからは、都井は学業への興味を失い、家に閉じこもるようになり、彼の孤立はさらに深まり、社会との接点を失わせた。

都井の性格は、「酷薄で凶暴で、直情的なのに狡猾。被虐的な一方で加虐的。内気で友達がいなくて、妄想の世界で暴君となる男たち。非人間的で、そしてあまりに人間的な男たち」と評されている。このような性格は、現実世界での孤立と不満が、内面世界での支配欲や復讐願望へと転化していった過程を示唆している。閉鎖的な村社会では、人間関係が極めて密接であるため、一度関係がこじれると「逃げ場のない」状況に陥りやすい。都井の徴兵検査不合格とそれに伴う女性関係の破綻は、彼にとって村社会における主要な居場所と自尊心の喪失を意味した。

「夜這い」という特殊な風習は、性的な関係の流動性を許容する一方で、その関係が破綻した際の個人の精神的打撃や、村内での「噂」や「評判」による社会的圧力を増大させる可能性があった。都井の被害妄想や恨みは、このような村社会の人間関係の網の中で、より深く、かつ個人的なものとして増幅されていったと考えられる。村社会の閉鎖性が、彼の内面の病理を加速させ、外部への攻撃へと向かわせる土壌となったのである。

凶器の入手と犯行準備

都井は事件に至るまでに、周到な準備を進めていた。1937年には狩猟免許を取得し、津山で二連発猟銃を購入している。翌1938年にはその猟銃を売却し、猛獣対策を名目に、より強力な12ゲージ(18.1ミリ)の五連発ブローニング・ウィンチェスターM1897ポンプアクション散弾銃を神戸で購入した。銃購入後、都井は毎日山に入って射撃練習を行い、夜には猟銃を持って村を徘徊し、近隣住民を不安にさせた。

祖母が都井に毒殺されそうになったと警察に通報したことで、猟銃、日本刀、短刀、匕首などがすべて没収され、狩猟免許も取り消された。しかし、凶器を失った都井は諦めることなく、友人を介して中古の猟銃を再入手し、刀剣収集家から日本刀などを手に入れて再び武器を収集した。この猟銃の購入、没収、そして執拗な再収集という一連の行動は、都井の犯行への強い執念と、冷徹な計画性の高さを示している。一度没収された後も武器を再入手したという事実は、彼の殺意が一時的な感情ではなく、深く根ざしたものであったことを物語る。

彼は1938年5月21日深夜に犯行を決行することを決意した。事件の数日前から、都井は姉など数人に長文の遺書を書き始めた。さらに、自転車で隣村の加茂町派出所に行き、住民が逃げて助けを求めるのにかかる時間を計算するなど、入念な「予習」を行った。当時、最寄りの西加茂派出所は戦争で人員不足のため巡査が不在であったという状況も、彼の計画を後押しし、犯行を阻む者がいないという確信を与えた可能性が高い。

1938年5月20日午後5時頃、都井は電柱に登って電線を切断し、貝尾村全体を停電させた。戦時中であったため停電は珍しくなく、村民は不審に思わず、通報もしなかった。電線切断による停電は、犯行時刻を深夜に設定したことと相まって、村人の視界を奪い、外部への通報を遅らせるための周到な準備であった。これらの準備行動は、都井が単なる精神錯乱者ではなく、目的達成のために冷静かつ狡猾に計画を練る能力を持っていたことを示している。彼の「妄想の世界で暴君となる男」という心理描写は、現実世界での無力感と、計画的な犯行を通じてそれを覆そうとする彼の内面の葛藤を映し出している。

都井睦雄の生涯における主要な転換点

都井睦雄の人生における主要な転換点を以下にまとめる。これらの出来事が複合的に作用し、彼の心理状態と行動に影響を与え、最終的に事件へと繋がったと考えられる。

時期出来事影響/結果
1917年誕生
幼少期両親の肺結核による死、祖母と姉による養育家族構成の変化、祖母からの溺愛
6歳祖母の故郷である貝尾村へ転居閉鎖的な村社会への適応、外部との隔絶
尋常小学校入学・卒業成績優秀、担任教師は旧制中学への進学を希望学習能力の高さ、祖母の反対により進学断念
尋常小学校卒業後胸膜炎を患い、医者から畑仕事を禁じられる病弱な体質、日々の生活の怠惰化
姉の結婚姉が家を出て、都井の孤立が深まる学業への興味喪失、家に閉じこもるようになる
1937年徴兵検査で肺結核と診断され、丙種合格社会的劣等感、女性からの拒絶、恨みの蓄積
1937年狩猟免許取得、二連発猟銃を購入武器への関心、犯行準備の兆候
1938年猟銃売却後、より強力な五連発猟銃を再購入犯行への強い執念、警察による武器没収と免許取り消し
1938年友人を介して凶器を再収集犯行決意の固化、周到な準備の継続
1938年5月20日長文の遺書作成、派出所までの時間計測、電線切断による停電冷徹な計画性、犯行環境の整備
1938年5月21日事件実行、仙之城山山頂で猟銃により自殺大量殺人の実行、事件の終結、真相解明の困難さ

第2章:津山三十人殺害事件の詳細

津山事件は、都井睦雄が周到な準備と計画のもと、一夜にして多数の命を奪った極めて残虐な事件である。その詳細な経緯は、彼の内面の闇と、当時の村社会の脆弱性を浮き彫りにする。

事件発生の経緯と日時・場所

事件は1938年5月21日午前1時40分頃に開始された。犯行現場は、岡山県苫田郡西加茂村大字行重の貝尾および坂本部落であった。この日付は、都井の犯行決意において重要な意味を持っていた。それは、かつて都井と親密な関係にあったが、その後他の村に嫁いだ2人の女性が里帰りする日であったからである。都井は以前からこの2人の女性に対して強い敵意と殺意を抱いており、彼女たちの里帰りの日を知っていたか、偶然耳にしたことで、その日に犯行を決意したとされる。彼の復讐計画は、この特定の機会を捉えて実行に移されたのである。

犯行手口と被害状況

都井は犯行に際し、異様な装いで行動を開始した。学生服の詰襟を着用し、ゲートルを巻き、地下足袋を履き、頭には手ぬぐいを巻き、両側に小型懐中電灯を1つずつ結びつけ、自転車用ライトを首から胸元に吊るしたという。腰には日本刀と2本の匕首を帯び、改造した9連発ブローニング猟銃を手に持ち、ポケットには100発の弾丸を詰め、さらに100発の弾丸が入った布袋を肩から下げていた。

最初の犠牲者は都井の祖母であった。彼は祖母を斧で斬首した。都井は遺書の中で、祖母を最初に殺害した理由について「彼女を生き残らせて全てに直面させるのはあまりにも可哀想だ」と説明している。その後、約1時間の間に、近隣住民が次々と改造猟銃と日本刀で殺害されていった。都井は合計11軒の民家に侵入し、そのうち3軒は一家皆殺し、4軒は1人が生存するという惨状であった。

生存者の証言によれば、都井は犯行中非常に冷静であったとされている。命乞いをする老婦人に対しては「元々お前とは何の恨みもないが、私の結婚相手を奪ったのだから殺すしかない」と言って猟銃で重傷を負わせた(この老婦人はその後生存した)。一方で、彼を悪く言わなかった老人に対しては、ただじっと見つめて見逃すこともあった。また、ある家では、主人が「私たちは絶対に外部に知らせませんから、どうか見逃してください!」と命乞いすると、都井は「お前たちは本当に命を惜しむな。よし、見逃してやろう」と答えて立ち去ったという。

都井の犯行は、無差別な殺戮に見えながらも、特定の標的(彼を拒絶した女性たち)への復讐という明確な意図に強く動機付けられていた。命乞いをする者や彼に好意的だった者を見逃すという行動は、彼の中に残された「人間性」や、彼なりの「合理性」を示唆している。しかし、その「合理性」や「情」は、自身の復讐計画の遂行を妨げない範囲でしか発揮されなかった。標的の女性が逃げ出した結果、彼女を匿った家の家族が惨殺されたという事実は、彼の復讐心が無関係の者を巻き込む非情なものであったことを示している。このような選択性は、彼の「非人間的でありながら、あまりに人間的」という複雑な人格を裏付けるものであり、彼が自身の歪んだ正義感と復讐心に基づいて行動し、その過程で極めて残虐な行為に及んだが、その根底には彼なりの「論理」が存在したことを示唆している。

犠牲者の内訳と生存者の証言

この事件の犠牲者は、死者30人(即死28人、重傷で死亡2人)、軽重傷3人であった。死者のうち5人は16歳未満であり、その無差別性と残虐性が際立つ 2。他に侵入された民家の生存者は、2人が元々不在だった他は、銃声や怒鳴り声を聞いてすぐに逃げたり隠れたりして助かった。

以下に津山事件の犠牲者概要を示す。

分類人数備考
死者総数 (犯人含む)31人
即死者数28人
重傷で死亡した者2人
軽重傷者数3人
16歳未満の死者数5人
侵入民家数11軒
一家皆殺しとなった家屋3軒
1人以上生存した家屋4軒

犯人の最期と遺書の内容

約1時間半にわたる虐殺の後、都井は遺書のために隣の樽井村に紙とペンを借りに来た。侵入された家の住人は都井の姿に恐怖で反応できなかったが、都井は、この家の子供が以前自分の話を聞いてくれたことを思い出し、子供から筆と紙を借りると、「しっかり勉強して、将来立派な仕事をしなさい」と告げたという。この行動は、彼の凶行の最中に見られた、ある種の人間性や、彼自身が叶えられなかった「立派な仕事」への憧憬の表れとも解釈できる。

その後、都井は約3.5キロ離れた仙之城山の山頂に登り、追加の遺書を書いた後、猟銃で自殺した。都井の遺体は翌朝の捜索で発見され、死亡推定時刻は午前5時であった。遺体の傍には追加の遺書があり、都井の自宅からも2通の遺書が見つかった。

遺書の中で、都井は犯行を決意した理由として、かつて関係があったが他村に嫁いだ女性が里帰りしたことを挙げている。しかし、都井がその女性の実家に入った際、女性は逃げ出して助かり、その女性を匿った家の家族が惨殺された。また、殺害しようとした人物がすでに引っ越していたり、他の人物の妨害で標的を殺害できなかったりしたことについて、都井は遺書の中で反省の意を示している。

遺書に記された「反省」の念は、彼の行動が完全に無軌道な狂気によるものではなく、彼なりの「目的」と「論理」に基づいていたことを示唆する。標的を達成できなかったことへの反省は、彼の犯行が個人的な恨みに強く焦点を当てていたことを裏付ける。都井が自殺したことにより、警察はごく少数の生存者の証言しか得られず、事件の真相や都井の動機に関する多くの部分が「未確認」のまま残された。都井と関係があったと噂された女性たちがそれを否定すれば、真相を確認する術はなかったのである。この「未確認の部分」の多さが、事件を後世にわたって謎めいたものとし、様々な憶測やフィクションを生む土壌となった。犯人の死は、事件の全容解明を阻む最大の要因であり、歴史的事件研究における資料の限界と、それに伴う「語り」の多様性を浮き彫りにしている。

第3章:事件の多角的考察

津山事件は、単なる大量殺人事件としてだけでなく、犯人の心理、当時の社会構造、そして時代背景が複雑に絡み合った社会病理の顕現として捉えることができる。

都井睦雄の犯行動機と精神状態

都井睦雄の犯行動機は、徴兵検査不合格による社会的評価の失墜と、それに伴う女性関係の破綻、そしてそれらに対する深い恨みと復讐心に集約される。彼は遺書の中で、かつて関係があった女性が里帰りしたことを犯行の理由として明確に述べている。彼の性格は「酷薄で凶暴で、直情的なのに狡猾。被虐的な一方で加虐的。内気で友達がいなくて、妄想の世界で暴君となる男たち。非人間的で、そしてあまりに人間的な男たち」と評されており、この複雑な内面が犯行を駆動したと考えられる。

都井は事件後に自殺したため、正式な精神鑑定や精神疾患の診断は行われていない。しかし、彼の行動や遺書の内容からは、何らかの精神病理学的側面が推測される。彼の綿密な計画性、冷静な犯行遂行、そして特定の人物に対する選択的な暴力は、単なる精神錯乱によるものではなく、彼なりの歪んだ正義感や支配欲に基づいていた可能性を示唆する。例えば、命乞いをする者や彼に好意的だった者を見逃す一方で、恨みを抱く者には容赦なく手を下すという行動は、彼の内面に存在する複雑な論理構造を物語っている。

「非人間的でありながら、あまりに人間的」という彼の性格描写は、心理的な病理と、拒絶、屈辱、復讐といった人間的な感情が複雑に絡み合っていたことを示唆する。この事件は、個人的な深い恨みが、特定の引き金と外部からの介入の欠如が重なることで、いかに極端な暴力へとエスカレートしうるかを示す事例である。彼の内面的な葛藤が、社会的な孤立と相まって、最終的に悲劇的な形で爆発したと解釈できる。

当時の村社会の構造と影響

津山事件が発生した貝尾村は、山奥に位置する極めて閉鎖的な集落であった。このような村社会では、人間関係が密接である一方で、一度関係がこじれると「逃げ場のない」状況に陥りやすい特性を持つ。都井の徴兵検査不合格とそれに続く女性関係の破綻は、彼にとって村社会における主要な居場所と自尊心の喪失を意味した。

当時の村に残っていた「夜這い」の風習は、性的な関係の流動性を許容する一方で、その関係が破綻した際には、村内での「噂」や「評判」が個人の精神的打撃や社会的圧力を増大させる要因となった可能性がある。都井の被害妄想や恨みは、このような密接な人間関係の網の中で、より深く、かつ個人的なものとして増幅されていったと考えられる。村社会の閉鎖性が、彼の内面の病理を加速させ、外部への攻撃へと向かわせる土壌となったのである。

事件後、貝尾村は甚大な影響を受けた。多くの労働力を失ったため、村の生活は非常に困難になった。また、都井の親戚一家は被害を受けなかったことから、都井の殺人計画を事前に知っていたのではないかと村人から疑われ、「村八分」という形で孤立させられた。これは、事件がコミュニティに与えた深いトラウマと、村人が責任を転嫁し、秩序を再構築しようとした試みを示す。1975年に発行された『加茂町史』には、この事件について「都井睦雄事件が発生した」という一文しか記載されていない。この簡潔な記述は、事件の記憶を封印し、その影響から逃れようとする地域社会の姿勢を反映しているとも解釈できる。この事例は、社会的な排除と、閉鎖的な社会環境の中で不満を処理できない状況が、いかに破滅的な結果を招きうるかを示すものである。

昭和初期の社会情勢とメディア報道

津山事件が発生した昭和13年(1938年)は、日中戦争の真っ只中であり、日本全体が戦時体制へと移行しつつあった時期である。徴兵は国民の義務であり、兵役を果たすことは男性にとっての栄誉とされていた。このような時代背景において、都井が肺結核で徴兵検査不合格となったことは、彼にとって耐え難い屈辱であり、社会からの疎外感を一層深める要因となった。

当時のメディアは、事件などの特異な出来事に大衆の興味が集中し、報道が過熱する傾向にあった。津山事件も例外ではなく、その残虐性と特異性から、世間の強い関心を集めた。マスメディア、特に大衆新聞や通信社が登場した19世紀後半以降、「ポスト・トゥルース現象」とも呼ばれるような、情報が感情や意見に影響されやすい傾向が既に存在していた。津山事件のような猟奇的な事件は、メディアによってセンセーショナルに報じられ、それがさらに世間の関心をエスカレートさせるという「二人三脚」のような関係を築いた。

戦時下の雰囲気は、国家主義的な価値観と男性の勇敢さを強調するものであり、都井の徴兵不合格という個人的な「恥」を一層際立たせた。メディアは、この事件のセンセーショナルな側面を強調することで、大衆の好奇心を満たし、事件が持つ社会病理的な側面への深い考察を阻害した可能性も指摘される。このことは、メディアが悲劇的な出来事に関する公共の物語を形成する上で、時にニュアンスのある理解を犠牲にする強力な影響力を持つことを示している。

事件の現代的意義と教訓

津山事件は、80年以上前の出来事でありながら、現代社会が抱える課題にも通じる普遍的な教訓を含んでいる。特に、閉鎖的な人間関係がもたらす問題は、形を変えて現代社会にも存在している。例えば、山口連続殺人放火事件など、現代の大量殺人事件においても、孤立した個人が「逃げ場のない」地域社会で不満を蓄積させ、最終的に凶行に及ぶという類似性が見られる 5。

現代社会では、スマートフォンなどの普及により、直接会わなくても会話ができるようになり、自分中心の世界が広がり、他者との繋がりが希薄になっているという閉塞感が指摘されている。このような状況は、個人が意見を表明しにくくなり、コミュニケーションを避ける傾向を強める可能性がある。津山事件における都井睦雄の孤立と恨みの増幅は、現代社会における社会的孤立や、歪んだ不満が適切に処理されないことの危険性を示唆している。

都井の「狂気」は、単なる異常な精神状態の現れではなく、社会的な排除、屈辱、そして個人的な挫折が複合的に作用した結果として捉えることができる。彼の行動は、当時の日本人が戦争という時代背景の中で抱えていたであろう、抑圧された狂気や不満の極端な表出であった可能性も指摘されている。現代社会においても、超競争社会という別の形での圧力やストレスが存在し、誰もが内面的な葛藤や不満を抱える可能性がある。

津山事件の教訓は、個人の精神的な健康問題に早期に気づき、適切なサポートを提供することの重要性、そして閉鎖的なコミュニティや人間関係の中で生じる軋轢や差別を解消し、より開かれた対話と共生を促す社会を構築することの必要性にある。この事件は、過去の悲劇として片付けるのではなく、人間の本質や社会の脆弱性について、現代の私たちに継続的な考察と反省を促すものである。

結論

都井睦雄による津山三十人殺害事件は、1938年という特定の時代背景と、閉鎖的な村社会の構造、そして犯人個人の複雑な心理状態が複合的に作用して引き起こされた、日本犯罪史上稀に見る悲劇である。都井の徴兵検査不合格という個人的な挫折が、当時の社会が男性に求める理想像との乖離を生み出し、彼を拒絶した女性たちへの深い恨みへと転化していった。この恨みは、密接な人間関係の中で逃げ場のない村社会の閉鎖性によって増幅され、最終的には周到に計画された大量殺戮へと結実した。

事件の実行は、都井の冷徹な計画性と、特定の標的への復讐という個人的な動機に強く基づいていた。彼の行動には、一部に人間的な側面が見られたものの、その復讐心は無関係の者をも巻き込む非情なものであった。都井の自殺により、事件の動機や真相の多くは未解明のまま残され、その謎めいた性質が後世のフィクション作品の題材となる要因ともなった。

津山事件は、個人の精神病理が社会環境と深く連動して悲劇を生み出す可能性を示唆している。徴兵制度という国家的なシステムが個人の人生に与える影響、閉鎖的なコミュニティが内包する社会病理、そしてメディアが事件の認識に与える影響など、多角的な視点から分析することで、この歴史的事件の複雑性が明らかになる。

現代社会においても、津山事件が持つ教訓は色褪せない。社会的孤立、コミュニケーションの希薄化、そして個人的な不満や恨みが蓄積される環境は、形を変えて存在し続けている。この事件は、人間の内面に潜む狂気や暴力性が、特定の社会的な条件と結びつくことで顕在化しうることを警告している。過去の悲劇から学び、開かれた対話、相互理解、そして精神的健康への配慮を促進する社会を構築することは、同様の悲劇を防ぐための継続的な課題である。津山事件の記憶は、私たちに人間の尊厳と社会のあり方について深く問いかけ続けるのである。

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