ある日、ひとりの女性が他人の家に上がり込み、家族会議の席で怒声を響かせました。家族の些細なもめ事に首を突っ込み、「他人の私が殴っているのに知らんぷりか。身内がやらなあかんやろ!」と叫ぶと、彼女は気に入らない発言をした者に容赦なく平手打ちを浴びせました。唖然とする家族に対し、その女性は「身内なら代わりに制裁しろ」と脅しつけ、家族同士での罰と暴力を強要したのです。こうして、恐怖に支配された家族は次第に互いを非難し合い、虐待し合う地獄へと引きずり込まれていきました。
それはフィクションではなく、実際に起きた尼崎連続変死事件(通称:尼崎事件)での一幕でした。事件を主導したのは角田美代子という一人の女――見た目はどこにでもいるような中年女性です。しかし彼女の内面は凶悪そのもので、25年以上にわたり複数の家庭を蝕み、暴力と恐怖で支配していました。家族が次々と“乗っ取られ”、男女8人もの尊い命が奪われ、不審死を遂げたこの事件は、日本の犯罪史上でも類を見ないほど異常で凶悪な事件として人々の脳裏に焼き付きました。
犯行の手口:暴力と心理操作による完全支配
角田美代子が用いた犯行の手口は、まさに人間の弱みに漬け込んだ巧妙かつ冷酷非情なものでした。彼女は標的とする家庭の些細な弱みや揉め事を見逃しません。そこにつけこんで恫喝・脅迫を重ね、いつしか一家全体を思いのままに操り支配する――いわば「家族乗っ取り」を繰り返していたのです。家庭内の小さな火種に干渉し、問題解決を名目に家族会議を開かせては、自分が気に入らない者に暴力を振るい、「身内同士で制裁せよ」と迫る。こうして被害者たちは恐怖に屈し、互いに監視・攻撃し合う異常な状況に追い込まれていきました。
暴力だけでなく心理的な操作も巧みでした。角田は怒号と威圧で相手を萎縮させる一方、ときには外食や旅行に連れ出し甘い顔も見せるなど、アメとムチを使い分けて忠誠心を植え付けました。彼女の傍で暮らす者たちは常に角田の顔色をうかがい、一挙一動まで支配されていきます。疑似家族の中では角田が「絶対的な1位」として君臨し、成員には明確な身分の序列まで課せられていました。序列によって角田から与えられる食事の内容や座る位置まで差をつけられ、誰一人自由に働くことすら許されず(実際、角田ファミリー内ではパチンコや買い物以外に皆仕事にも行かず常に団体行動だったと言います)、生活のすべてが角田の掌の上に置かれていたのです。
角田は話術にも長け、記憶力も非常に良く、相手の言葉じりを捉えては巧みに揺さぶりました。その迫力は「ヤクザの女親分」のようだとも形容され、一度彼女ににらまれたら最後、「どこまでも追いかけてくるような得体の知れない怖さがあった」と共犯の一人が後に証言しています。恐怖で逃げ出した者がいれば執拗に探し出しては連れ戻し、さらに制裁を加えることで逃亡の芽を摘む徹底ぶりでした。逆らえば容赦なく精神的・肉体的に追い詰められる――日常的な暴力と制裁の積み重ねによって、被害者たちはいつしか「角田には絶対に逆らえない」と身体に染み込むほど思い知らされていきました。
壊れていく被害者たち:巻き込まれた家族の悲劇
角田美代子に目を付けられた人々は、最初はごく普通の暮らしを送っていた平凡で温厚な人々でした。しかし一度彼女の支配下に取り込まれると、日常は瞬く間に悪夢へと変貌します。被害者たちは半ば奴隷のような扱いを受け、監禁同然の集団生活の中で常時監視されました。食事や睡眠さえも満足に与えられず、人間の尊厳を奪われていきます。些細な行き違いで角田の機嫌を損ねれば激しい暴力と罰が待ち受け、時には飲食の禁止や睡眠剥奪といった拷問じみた制裁も加えられました。
さらに恐ろしいのは、被害者自身が加害行為に加担させられることでした。角田の恫喝によって家族間で暴力を振るい合わされ、「家族が家族を傷つける」という常識では考えられない悲劇的な状況が作り出されていったのです。例えば、彼女の強要により父が子に手を上げ、兄弟姉妹がお互いをなじり合うといった地獄絵図が日常茶飯事となりました。こうした行為は被害者たちに深い罪悪感と絶望を植え付け、もはや警察に助けを求める気力すら奪っていきました。「私が悪いんだ。美代子は何も悪くない」「恩を仇で返してしまった。美代子に申し訳ない」といった歪んだ自己犠牲の念すら刷り込まれ、彼らは自分の苦しみを正当化することで精一杯だったのです。
こうして何年にもわたる虐待と洗脳の果てに、被害者たちは心身ともに崩壊していきました。家庭は破綻し、親子・兄弟の信頼関係はズタズタに引き裂かれ、角田の虜となった者だけが唯一の「家族」として残されます。やがて彼らの中には、角田の命令に従って他の被害者への監禁や暴行に手を染める者さえ現れました。それは自分が生き延びるための精一杯の策であると同時に、もはや彼女なしでは何も決められないほど意志を奪われてしまったことの証でもありました。こうして角田の周囲には、彼女に心身を支配され共犯へと堕ちていく者と、抵抗した末に命を落とす者とが残酷にも選別されていったのです。
事件の全貌:25年にわたる連続虐待と殺人
尼崎連続変死事件の発端は、今から遡ること約40年前の1987年頃に起きた一人の女性失踪事件でした。角田美代子はこの頃までに既に複数の人間を自分のもとへ集め、尼崎市内の自宅で血縁のない者同士による奇妙な擬似家族の共同生活を始めていたとみられます。1987年に最初の被害者(仮に「Aさん」とします)が消息を絶ったのを皮切りに、以降彼女の周辺では不審な失踪や死亡事件が次々と起こりました。しかしそれらは長らく表沙汰にならず、“闇に葬られた事件”として積み重なっていったのです。
角田の犯罪は年代とともにエスカレートし、被害者とされた家族の数は少なくとも4~5家族に及びました。90年代末にはBさん一家が乗っ取られ、2000年代前半にはCさん・Dさん一家が標的となり、2009年以降にはEさん・Fさん一家に魔の手が伸びました。角田は時に戸籍上の養子縁組や結婚を悪用し、被害者家族の一員となることで支配力を強めています。例えば、自らの腹心である義理の妹Hを被害者男性と無理やり結婚させて親族関係を偽装するなど、手段は周到でした。こうして法的・社会的にも一見「家族」の体裁を整えながら、内実は暴力によって完全統制された地獄の共同生活を続けていたのです。
2000年には角田と親族らが窃盗事件で逮捕・起訴される出来事がありました。捜査当局はこの時点で彼女の周囲に自殺者や不審死者が複数いることを把握しており、「美代子が黒幕ではないか」と疑い始めます。しかし裁判では角田側の「ただの平凡な主婦だ」という主張が通り、執行猶予付き判決で釈放されてしまいました。この時、裁判所は検察の唱えた“美代子主導説”を退けてしまったのです。後に弁護人は「あの時の主張は結果的に間違っていた」と後悔の念を述べています。もしこの段階で角田の本性が見抜かれ、厳正な対処がなされていれば――その悔やみきれない思いは、関係者の胸に深く突き刺さりました。
発覚と捜査:逃げ出した被害者が暴いた真実
長年闇に潜んでいた連続事件がついに表面化したのは、2011年11月のことでした。その頃、角田の下で監禁状態に置かれていた40代の女性(F家の長女)が恐怖を振り切って脱出し、警察に駆け込んだのです。彼女の勇気ある通報により、まず角田はこの女性への傷害容疑で逮捕されました。そこから捜査が動き出し、角田に支配され行方不明となっていたF家の母親の死亡が明るみに出ます。貸倉庫に隠されたドラム缶の中から発見された高齢女性の遺体――それがF家の母親であり、この戦慄すべき連続事件解明の端緒となりました。
捜査当局は角田の疑惑を徹底追及し、共犯者たちの取り調べを進めていきました。そして翌2012年10月、別件の年金窃盗事件で拘束していた角田の親族が観念したように全面自供を始め、一連の事件の全貌が次々と暴露されていったのです。兵庫県警を中心に香川県警、沖縄県警も合同で捜査本部を立ち上げ、大規模な真相解明が進められました。尼崎市内の民家床下、岡山県の港湾海中など各地から次々と白骨遺体や身元不明の遺体が発見され、長らく「行方不明」とされていた人々が実は犠牲になっていた事実が浮かび上がったのです。
追い詰められた首謀者の角田美代子は、2012年12月12日、勾留先の兵庫県警本部留置場にて首つり自殺を遂げました。64歳、生きたまま法の裁きを受けることなく幕引きとなった彼女は、事件についてほとんど何も語らないまま世を去りました。角田亡き後、捜査本部は共犯者たちの供述を頼りに捜査を継続し、最終的に確認された死者は8名(他に遺体未発見の犠牲者1名を含め少なくとも9名)に上りました。2014年3月には大規模捜査が終結し、角田の親族や元同居人ら計11名が殺人・傷害致死・監禁致死などの罪で起訴されました。裁判の結果、主だった共犯者7名には懲役15年から無期懲役までの有罪判決が言い渡されています。また、角田の魔の手から逃れたまま行方不明になっている人物が2名おり、その安否はいまだ不明のままです。
警察の対応と世間への衝撃
この事件が社会に与えた衝撃は計り知れません。表向きは平凡な住宅街で起きていた連続殺人劇に、世間は戦慄しました。「ホラー小説も顔負け」と評する声もあり、ネット上では登場人物のあまりの多さと人間関係の複雑さから、国民的アニメ「サザエさん」の家族に見立てた相関図が不謹慎ながら出回るほどでした。多くの人々が「こんな異常な事件がなぜ長年発覚しなかったのか」と驚き、恐怖と同時に怒りを持って受け止めました。それもそのはず、角田美代子という一人の中年女性が暴力団や宗教団体の後ろ盾もなく、これほどまで多くの家族を破滅させていたのです。「ごく普通の住宅地の一角で、ごく普通の人々がたった一人の女にいいように操られ、これだけの事件を起こした」という事実に、日本中が震え上がりました。
同時に、この事件は日本の警察体制にも大きな教訓を突きつけました。後の検証で明らかになったのは、事件発生前から近隣住民や被害者親族らによる通報・相談が少なくとも50件近くも警察になされていたという事実でした。しかしその多くは「家庭内の揉め事」「身内間の金銭トラブル」として深刻に受け取られず、適切な捜査や保護措置が講じられなかったのです。結果として角田による長期にわたる凶行を許す形になってしまい、事件発覚後、兵庫県警と香川県警は当時の対応の不備を認めて関係者に謝罪するに至りました。もし初期の段階で警察が踏み込んでいれば防げた命があったかもしれない――そう思うと悔やんでも悔やみきれないと、多くの人々が感じたことでしょう。
角田美代子元被告の死亡から10年を迎えた今日、事件を振り返って警察は地域の異変に対するアンテナを高くし、家庭内トラブルにも積極的に介入する姿勢を強めています。メディアもまた、当初容疑者女性の顔写真を誤って別人のものと取り違えて報道し謝罪するなどの失態を経験し、報道の在り方について議論を呼びました。被害者遺族や地域社会に残した傷跡は深く、「家族とは何か」「地域社会は異変にどう気付くべきか」という重い問いを投げかけた事件でもあります。
角田美代子という女性が追い求めたものは一体何だったのか――。接見を重ねた弁護士は「彼女は理想の家族を追い求めていた。だがその手段に用いたのは暴力と恐怖だった。寂しい人だったのだろう」とその心理を推し量りました。30年近く行動を共にし「最も信頼していた」はずの義妹ですら、公判で「毎晩、美代子が死んでほしいと願っていた」と証言したように、彼女の築いた“家族”には憎悪と怯えしか残っていませんでした。角田自身は無縁仏としてひっそりと葬られ、生前に書き残していた留置場の日記さえ引き取り手がないまま処分されたといいます。凄惨極まりない事件はこうして幕を閉じましたが、その異常性と恐ろしさは、今なお人々の記憶に強烈な爪痕を残しています。あの悪夢のような出来事を繰り返さないために、私たちはこの事件から何を学び取るべきなのでしょうか。心に突き刺さる教訓だけが、残された唯一の救いなのかもしれません。
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