1998年11月、三重県伊勢市で当時24歳の女性雑誌記者が突然姿を消すという事件が起こりました。この事件は、新聞やテレビでも報じられ、警察の捜査や記者の仕事環境について様々な議論を呼びました。伊勢市女性記者行方不明事件として知られるこの未解決事件について、当時の状況やその後の展開を振り返りながら、捜査の問題点、女性記者の労働環境、そして真相が解明されなかった理由について考えてみます。
事件の概要と経緯
まずは事件発生当時の主な出来事を時系列で整理してみましょう。
- 1998年11月24日 夜 – 三重県伊勢市にある出版社「伊勢文化舎」で編集記者として働いていた辻出紀子さん(24歳)が、夜11時ごろに退社しました。この日は辻出さんがタイ旅行から帰国後、休暇明け初日の勤務日で、彼女は日中いつも通り打ち合わせや取材をこなしていました。休暇中にたまった仕事を片付けるため遅くまで残業していたと家族も考え、辻出さんが夜中に帰宅しなくても当初は心配しませんでした。
- 1998年11月25日 – 翌日になっても辻出さんが戻らないため心配が広がります。この日、辻出さんの車(紺色の日産マーチ)が勤務先近くの保険会社の駐車場で発見されました。車内に荒らされた形跡はなかったものの、彼女の財布や手帳、携帯電話が入ったショルダーバッグは見当たらず、代わりに一本のタバコの吸い殻が残されていました(辻出さん自身はタバコを吸わない)。さらに運転席のシート位置が通常より後ろになっており、いつもかけっぱなしにしていたカーステレオのスイッチも切られていました。これらの状況から、本人以外の第三者が車を移動させた可能性が強く疑われました。
- 失踪直後の警察対応 – 車から明らかな不審点が見つかったにもかかわらず、地元警察は当初この失踪を深刻に受け止めませんでした。伊勢警察署の生活安全課は辻出さんを「家出人」(自分の意思で失踪した人)として扱い、ご両親から捜査してほしいとの訴えにも取り合わなかったのです。不安に駆られた父親は警察署副署長に面会しましたが、「そのうち見つかる」といった様子で笑って宥められるばかりだったといいます。失踪から約1か月後になってようやく非公開での捜査が始まりましたが、警察は当初辻出さんの家庭の問題(家出の動機となるような事情)がなかったかを疑い、家族と職場同僚から別々に事情を聴くだけで、会社側が把握していた情報を家族には共有しようとしませんでした。
- 捜査線上に浮かんだ男性X(1999年1月〜) – 年が明けても手がかりが掴めない中、辻出さんの失踪前に接触した人物として、知人男性Xが浮上しました。Xは尾鷲市在住の男性で、辻出さんが取材を通じて知り合った相手でした。実はXは、伊勢文化舎が発行する地域情報誌『伊勢志摩』の企画で、辻出さんが東紀州地域を取材する際に地元協力者として紹介された人物でした。熱帯魚店を営み青年会議所の副理事長も務めるなど顔の広い人物で、子ども向けの自然体験イベントで講師をする姿などその紳士的な振る舞いが評価され、辻出さんも彼を信頼していました。実際、彼のことを同僚に「かっこいいでしょ」と写真を見せて話したり、雑誌で彼を特集する記事を執筆したこともありました。
- 1999年1月26日~2月3日 – 警察はXに事情を聞くため「任意同行」を求め、1月26日から約1週間にわたり連日取り調べを行いました。しかしその実態は朝8時にパトカーで自宅に迎えに行き、深夜0時過ぎまで取り調べて夜中に帰宅させるという過酷なもので、「任意」とは名ばかりの長時間尋問でした。取り調べの中で捜査員は、辻出さんを殺害して遺体をどこかに遺棄したのではないかとXを激しく追及し、自白を迫りました。Xは当初「辻出さんとは昨年夏以降会っていない」と否定していましたが、供述が二転三転した末に「11月24日の夜23時頃に辻出さんと会った」ことを認めました。実はXは辻出さん失踪直後、不自然にも刑法や刑事訴訟法の専門書を何冊も購入しており、警察はこれも疑わしい点だと見ていました。
- Xが語った当夜の状況 – Xは辻出さんと会っていた事実を認めたものの、自身の関与を否定し続けました。後の報道によると、Xは「自分の車の中で取材の件で1時間ほど辻出さんと話をし、その後別の海岸近くで彼女を降ろした」と説明しています。つまり、24日深夜に辻出さんを車で連れ出し、海岸付近まで送り届けたが、その後の行方は知らない、という主張です。しかし、深夜に女性を一人海辺で降ろすという不自然な話に家族は納得できず、「本当に無事に別れたのなら辻出を探すのに協力するはず。彼の話は信じられない」と感じたといいます。
- 物証の不足と不可解な捜査ミス – 警察はXの自宅周辺の聞き込みや家宅捜索も行いましたが、決定的な証拠は得られませんでした。唯一気になるものとして、Xが女性の使用済み生理用品を所持していたことが挙げられます。その付着血液の型は辻出さんと同じB型でしたが、Xの交際相手(ガールフレンド)もB型であったため、「それが辻出さんのものだ」という確証はありませんでした。さらに不可解なのは、警察がこの生理用品をいったん持ち帰った後にXへ返却してしまい、後日DNA鑑定による照合が不可能になってしまったことです。重要な物的証拠になり得たかもしれない品を手放してしまった点は、明らかな捜査ミス・判断ミスだったといえます。
- 1999年2月10日 – 警察は依然Xの関与を疑い続け、直接の証拠がないまま「別件逮捕」という手段に踏み切りました。これは、本件とは別の容疑で逮捕することで身柄を確保し、本来の事件について取り調べを続ける手法です。Xの場合、1年前の1997年12月に東京で発生した女性Aさん監禁容疑が持ち出されました。Xが東京出張の際に親しくしていたホテトル嬢(デリバリーヘルス嬢)のAさんを、自宅マンションに縛って閉じ込めた疑いがあるという内容で、事件から1年以上経った1999年2月5日に突如被害届が提出され、Xはこの容疑で逮捕されたのです。明らかに辻出さん失踪事件を本丸とした逮捕劇でした。
- 1999年3月~その後 – 別件逮捕による監禁事件の裁判が津地方裁判所で始まり、Xは無罪を主張しました。その公判では、Aさん(監禁容疑の被害者とされた女性)の証言が曖昧で不自然だったこと、さらに犯行があった時間にXが現場の写真を撮影していたことや会話を録音したテープなどが証拠提出され、X側の無実を裏付ける材料となりました。写真にはAさんの姿や所持品が写っておらず、録音テープにも事件当時の緊迫感が感じられない内容が残されていたため、Xによる監禁そのものが疑わしい状況だったのです。結果として、Xは監禁事件について無罪判決を勝ち取り、後に確定しました。裁判を通じて辻出さん失踪への直接の証拠は何ひとつ示されず、Xは本件でも正式に起訴されることなく釈放されています。
- 捜査の行き詰まりと公開捜査へ(1999年9月) – Xを巡る捜査が難航する中、警察は事件から約10か月が経過した1999年9月24日になってようやく本格的な公開捜査に踏み切りました。三重県警は辻出さんの顔写真や情報を公開し、広く一般に情報提供を呼びかける体制をとったのです。それまで非公表だったこともあり、地元紙でも「女性記者不明7か月」の見出しで事件が報じられました。しかし残念ながら有力な手がかりは得られないまま、捜査本部は縮小され、事件は現在まで未解決のまま推移しています。
以上が事件発生から大まかな流れです。それでは次に、この事件における警察捜査の問題点や、当時の新聞記者(雑誌記者)の仕事環境について詳しく見ていきます。
警察捜査の問題点と対応の評価
伊勢市女性記者失踪事件では、警察の初動対応やその後の捜査手法に多くの問題点が指摘されています。ここでは事実関係を踏まえ、どのような対応上の課題があったのか整理します。
- 初動捜査の遅れと見立ての誤り: 先述の通り、辻出さんの車には他人が関与した可能性を示す明確な痕跡(ずさんな駐車や他人のタバコの吸殻、バッグの消失)がありました。にもかかわらず警察は当初それらを深刻視せず、「事件」ではなく本人の失踪(家出)として処理してしまいました。家族からの捜索願にすぐ動かなかった点、さらに現場保存や聞き込みといった基本的な初期対応が遅れた点は、大きな批判を招きました。結果として、発生直後の貴重な時間を空費し、防犯カメラ映像の確保や目撃情報の収集なども十分に行われないまま手がかりを失った可能性があります。警察側は当時「事件性がある確証がなかった」と弁明しましたが、後になって公開手配に踏み切った事実からも初期判断の甘さは否めません。
- 一家の不安に寄り添わない姿勢: 辻出さんのご両親は娘が連絡なく帰宅しないことに強い不安を覚え、早期から警察に真剣な捜査を求めていました。しかし、副署長が父親に「心配しすぎでは」といった対応をしたように、警察は当初家族の訴えを軽く受け流してしまいました。事件後、ご両親は「最初の数日がとても長く感じられた。必死に訴えたのに動いてもらえず悔しかった」と心情を語っています。警察のこの姿勢は結果的に信用を損ね、後手に回った捜査の印象を強めました。
- X容疑者への捜査一辺倒: 捜査本部が立ち上がった後、警察は知人男性Xに狙いを定めました。確かにXは最後に辻出さんと接触した人物であり重要な手がかりでしたが、警察の関心は彼一人に集中し過ぎたきらいがあります。1999年1月末から2月にかけてのXへの長時間取り調べや別件逮捕は、他の可能性を検討する余裕を奪いました。特に別件逮捕については、「証拠がないからといって過去の事件で無理に逮捕するのは人権侵害ではないか」と批判されました。実際、Xの監禁容疑裁判では無罪が確定し、捜査側の見込み違いが結果として示された形です。一人の容疑者に固執している間に、もし他の犯人像や手がかりがあったとしても見逃してしまった可能性があります。捜査のバランスを欠いた対応だったと言えるでしょう。
- 強引な取り調べと人権問題: 別件逮捕後のXに対する取り調べでは、警察の強引な手法が明るみに出ました。Xは2月以降、身柄を拘束されながら執拗に辻出さん事件について追及を受けました。4月29日にはポリグラフ(嘘発見機)検査まで行われそうになり、拒否しようとしたXに対し刑事が無理やり装置を付けようとして腕に怪我を負わせる事態となりました。さらに、検査を拒否しようとするXに対し「拒否するなんて黒だな」「最後のチャンスを蹴ったんだ」「証拠はないけど真っ黒になったぞ」などと虚偽の内容で威圧的な発言を繰り返して自白を迫ったのです。これらの様子は取り調べ室のビデオに記録されており、裁判で弁護側から証拠提出されました。その映像には他にも「逮捕された被疑者はどんなことがあっても取り調べを拒否できない」などと法律上誤った説明で圧力をかける場面も映っていたといいます。これら警察の違法・不適切な取り調べ手法は、後に日本弁護士連合会(日弁連)からも「重大な人権侵害である」として強く問題視され、三重県警に対する警告につながりました。捜査の早期解決を焦るあまり、手段を選ばない取り調べに走った警察の対応は厳しく批判されています。
- 証拠不足と限界: 結局、警察はXから辻出さんの失踪に直結する証拠や自白を引き出すことはできませんでした。Xは終始「自分は無関係だ」と主張し続け、確たる物的証拠もなく、公判でも有罪とは立証されませんでした。その結果、本件は現在まで犯人不明のままとなっています。警察は多大な捜査員を投入し延べ何万人時間もの捜査を行ったとされますが、最終的に真相解明に至らなかった捜査として、教訓を残すことになりました。初動の遅れや捜査の偏りがなければ違った結果になったのではないか――そうした検証も一部では行われていますが、今となっては「たられば」の話となってしまいます。
1990年代の女性記者の労働環境と社会背景
辻出紀子さんは当時24歳という若さで地域情報誌の編集記者として活躍していました。事件を語る上で、当時の新聞・雑誌記者の働き方や労働環境について触れておくことも重要でしょう。とりわけ、若い女性記者であった辻出さんの職場状況や社会背景について、わかっている範囲でまとめます。
- 長時間労働と不規則な勤務: まず目につくのは、辻出さんが深夜まで仕事をしていたという点です。彼女が行方不明になった日は、前述したように夜遅くまで職場に残っていました。実際、当時の家族も「休暇明けで仕事が溜まっているから帰りが遅くなるのだろう」と考えていたほどで、そのくらい残業や深夜勤務は珍しいことではなかったわけです。1990年代の日本のマスコミ業界では、現在以上に長時間労働が当たり前視されていた側面があります。記事の締め切り前や取材が立て込む時期には、終電を逃して社内に泊まり込みという話も珍しくありませんでした。当時はまだSNSもなくインターネットニュースも黎明期でしたが、その分紙媒体や雑誌の記事制作に時間と労力をかける必要があり、「記者稼業に定時勤務はない」と言われるほど不規則な働き方が常態化していました。辻出さんのケースも、小さな出版社ゆえに編集から取材まで一人で何役もこなし、情熱を持って仕事に打ち込む中で労働時間が長くなりがちだったのではないかと推測されます。
- 女性記者を取り巻く環境: 90年代当時、報道の世界では徐々に女性記者が増え始めていたものの、依然として男性社会の色合いが強い職場も多くありました。そのような中で、辻出さんの勤務先である伊勢文化舎は、編集長や副編集長にも女性が就いており、編集スタッフにも女性が多く在籍していたことが確認できます。実際、辻出さん自身も含め同世代の女性スタッフがチームを組んで地域情報誌を作っており、比較的女性が活躍しやすい職場だったようです。編集後記などにも女性ならではの視点が活かされていたとのことで、彼女も生き生きと取材や記事執筆に励んでいました。職場でのハラスメントの有無については、公には特に報告されていません。むしろ同僚からは「明るく積極的で、他人とトラブルを起こすようなタイプではなかった」と評されており、人間関係は良好だったようです。上司にも女性がいたことから、性別ゆえの理不尽な扱いを受ける環境ではなかったのではないかと推察されます。
- 当時の社会的背景: 1998年という時代は、ちょうど日本が長引く不況(就職氷河期)の只中にあり、働く若者にとっては厳しい社会状況でもありました。一方で、報道・マスコミの世界では男女雇用機会均等法施行から10年以上が経過し、女性の進出も徐々に進んでいました。しかし深夜勤務など一部労働規制は女性に厳しかった時代でもあります(当時は女性の深夜業が労基法上制限されており、新聞社などでは男性記者が夜勤を担うのが通例でした)。そのため女性記者たちは昼夜を問わない取材現場で苦労もしつつ、工夫しながらキャリアを積んでいたと考えられます。辻出さんも大学卒業後に地元で編集記者となり、「自分の目で地域を取材したい」「社会の役に立つ記事を書きたい」という思いを持って仕事に取り組んでいたようです。失踪直前には世界遺産に認定される前の熊野古道の取材を計画し、「いい記事にするぞ」と意気込んでいたとも伝えられています。さらに彼女は将来、海外で難民支援の仕事に関わりたいという夢も抱いていたと報じられました。そうした向上心あふれる24歳の女性が突然消息を絶ったことは、同世代で働く多くの若者にとっても衝撃的な出来事でした。
真相が解明されなかった理由と考察
この事件は残念ながら現在まで真相が解明されていません。なぜこれほどの手がかりと労力を投入しながら、決定的な解決に至らなかったのでしょうか。確定的な答えは出ていませんが、客観的な視点からいくつか考えられるポイントや仮説を挙げてみます。
- 物的証拠の欠如: まず第一に、事件の核心を示す証拠が極めて乏しかったことが挙げられます。辻出さんの遺留品は車とその中のわずかな痕跡だけで、彼女本人も未だ発見されていません。遺体が見つからない以上、殺人事件として立件することも難しく、事件性を確定づける証拠がないまま時間が経ってしまいました。先述の通り警察はXを強く疑いましたが、Xに結びつく物証(例えば血痕や指紋、目撃証言など)は出てこず、決定打がない状況では犯人を特定できません。科学捜査の面でも、DNA鑑定などが1990年代当時は今ほど精密ではなく、僅かな痕跡から真相に迫るのは困難でした。また、初動ミスで取り逃した証拠(例の生理用品の件など)もあり、証拠不足に拍車をかけてしまいました。
- 捜査の偏りとタイムロス: 警察が長らくXに焦点を絞ったことも、他の可能性を追う時間を奪った可能性があります。もしX以外に真犯人や事件の鍵を握る人物がいた場合でも、序盤で捜査の目が行き届かなかったかもしれません。実際、警察が公開捜査に踏み切ったのは失踪から10か月後と遅く、それまで広く情報提供を呼びかける機会を逸していました。公開が遅れた理由として、Xを内々に追及していたため情報を伏せていたとも言われます。しかしその間に時間が経ち過ぎ、記憶も風化してしまいました。事件当夜に辻出さんを見かけた人がいたかもしれませんが、10か月も経ってからでは情報提供も得にくくなります。時間経過は未解決事件にとって大敵であり、初動からの遅延が真相解明を難しくした一因といえるでしょう。
- X氏の沈黙: 事件の鍵を握ると目されたX本人が、結果的に何も語らずじまいであることも大きな要因です。Xは監禁容疑で無罪が確定した後、「無罪になれば自分はすべてを話す」と辻出さんの家族に語っていたといいます。しかし無罪が確定した後も、一切口を開かず沈黙を貫き通しました。もしXが本当に何か事情を知っているのであれば、その沈黙によって真相究明の機会は失われてしまいました。一方で、本当に何も知らないから語りようがないだけなのかもしれません。いずれにせよ、最後に会った人物が何も語らない以上、推理にはどうしても限界があります。Xが白であれ黒であれ、彼が協力しない以上これ以上の進展は望みにくく、捜査当局も事実上お手上げの状態になっていると考えられます。
- 様々な仮説と風聞: 未解決事件には噂がつきものですが、この事件でもいくつかの仮説が飛び交いました。有名なのは**「北朝鮮による拉致」説**です。失踪現場が海にも近い伊勢志摩地域であったことや、時期的にも北朝鮮による日本人拉致問題が注目され始めた頃だったことから、「辻出さんも北朝鮮工作員に連れ去られたのではないか」という憶測が一部で語られました。しかしこの説を裏付ける決定的な証拠はなく、警察も公式には拉致の可能性を否定しています。実際、この拉致説を含め信憑性に欠ける巷の噂が多く流布されたものの、いずれも根拠が薄いものでした。他にも「辻出さんが地元のある闇情報(例えば違法売春島の取材など)に踏み込んで消された」というようなネット上の噂話もありますが、どれも想像の域を出ません。こうした情報が錯綜したことで捜査が混乱したわけではないにせよ、事件の全貌が見えないもどかしさが世間の様々な臆測を呼んだと言えるでしょう。
- 事故や自発的失踪の可能性: 可能性は低いとはいえ、事件性以外のシナリオも完全には否定し切れません。例えば、Xの証言どおり彼と別れた後、辻出さんが夜の海辺で何らかの事故に巻き込まれた可能性です。誤って海に転落したり、第三者に偶発的に襲われたりしたケースもゼロではありません。また、ごく僅かですが自ら姿を消したという可能性も論じられました。しかし辻出さんは失踪当時パスポートも所持しておらず、銀行口座からお金が引き出された形跡もありませんでした。何より、彼女は直前まで仕事に意欲的であり将来の夢も語っていたことから、自発的に失踪する動機は考えにくい状況でした。したがって事故説や自主失踪説は可能性が低く、警察も一貫して何らかの事件に巻き込まれたものと見ています。
以上のような点が絡み合い、この事件は解決が難航しました。最有力とされたXの線は立証できず、他の糸口もなく、時間だけが過ぎてしまったのが現状です。捜査関係者も「手詰まり」の言葉を漏らすほどで、結果的に真相は迷宮入りとなってしまいました。
おわりに:事件が残したもの
伊勢市女性記者行方不明事件は、地元では今なお語り継がれる未解決事件です。年月の経過とともに風化の懸念もありますが、ご家族は決してあきらめていません。辻出さんのご両親は、娘の写真を知人や行きつけの店、取材先などに配って情報提供を呼びかけたり、パソコンを覚えて娘のメール仲間に連絡を取ったりするなど、できる限りの手を尽くして捜索を続けてきました。毎年、失踪日の11月24日には地元でビラ配りや呼びかけを行い、「どうか心の片隅にこの事件のことを留めておいてほしい」と訴えています。「どんな形でも一度抱きしめてあげたい」という母親の言葉からは、娘を想う切実な気持ちが伝わってきます。
事件発生から25年以上が経ち、当時若手だった同僚記者たちも今やベテランとなりました。しかし「紀子ちゃんのことは忘れられない。記者人生で一番悔しい出来事だ」と振り返る人もいます。警察も捜査を打ち切ったわけではなく、現在も三重県警伊勢署に捜査本部を置いて情報収集は続けられています。わずかな可能性でも真相解明に繋がることを信じ、関係者は粘り強く取り組んでいます。
確かに、この事件には未だ多くの謎が残されています。しかし一方で、初動捜査の在り方や捜査手法の問題、記者の労働環境など、私たちが学ぶべき教訓も浮き彫りになりました。事件を風化させず語り継ぐことは、同じような悲劇を繰り返さないためにも大切です。辻出紀子さんの一日も早い発見と事件の真相解明を願いつつ、この記事を締めくくりたいと思います。
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