東村山市朝木明代市議転落死事件(1995年)|警察捜査の妥当性と自殺認定への疑問

不可解・不審死事件

1995年9月1日夜、東京都東村山市の市議会議員・朝木明代氏(当時50歳)が東村山駅前のビル(ロックケープビル)から転落死した。警視庁東村山署は事件性はなく自殺と断定したが、朝木氏は創価学会を追及する活動をしていたこともあり、創価学会の関与を疑う声が上がって社会的騒動に発展した。本記事では当時の警察捜査の内容と問題点、「本当に自殺と断定できるのか」という論点、そして事件の背景にあった政治的対立やその前後の経緯について、事実関係を整理しつつ問題提起していく。

事件の経緯(時系列)

  • 1995年4月 – 東村山市議選(統一地方選)で朝木明代氏がトップ当選(草の根市民クラブ所属の無所属議員)。
  • 1995年6月19日 – 東村山市内の衣料品店で万引き事件発生。後日、朝木氏がこの万引き容疑で東村山署から事情聴取を受け始める。
  • 1995年7月12日 – 万引き容疑について、朝木氏は容疑を否認しつつアリバイ(同僚と食事中だった)を主張したが、裏付け捜査で矛盾が判明しアリバイ工作と見做され書類送検される。朝木氏は逆に「創価学会員である店主が仕組んだ冤罪だ」と訴え、店主を名誉毀損で刑事告発した。
  • 1995年9月1日 22時頃 – 朝木明代氏が東村山駅前ロックケープビル5~6階間の非常階段から地上に転落(目撃者なし)。22:30頃、1階ハンバーガー店長が裏手のごみ置場で倒れている朝木氏を発見し通報。意識はあり「大丈夫です」と応答するも間もなく意識不明となる。
  • 1995年9月2日 未明 – 朝木氏が搬送先病院で死亡。警察は「衣服や身体に争った跡がない」「ビル真下に落下(他人に突き落とされたなら放物線を描くはず)」「救急車を呼ぶ提案を拒否した」等の理由から事件当日中に自殺と判断した。遺書は見つからなかった。
  • 1995年9月3日 – 朝木氏が創価学会問題のシンポジウムで講演予定だった日(転落死により実現せず)。
  • 1995年9~11月 – 創価学会関与の他殺の可能性について週刊現代、週刊新潮など多くのメディアが報道。11月には国会の宗教法人に関する特別委員会で、自民党・共産党議員が「初動捜査が不十分ではないか」など本件を取り上げ質疑。
  • 1996年3月 – 万引き容疑事件は「被疑者死亡」により不起訴処分で終結。
  • 1995~1997年 – 創価学会が週刊現代・週刊新潮・東村山市民新聞(草の根グループの機関紙)の他殺報道に対し名誉毀損訴訟を提起。いずれも創価学会側の勝訴が確定し、他殺関与説の記事は裁判で事実無根と認定された。
  • 1998~2003年 – 遺族側は他殺説の真相究明を求め著書『民主主義汚染』『東村山の闇』を刊行。裁判過程で司法解剖鑑定書が事件から約4年後に開示され、両上腕部の皮下出血痕など新証拠が明らかになる。
  • 2000年代以降 – 遺族・支援者と創価学会側の応酬が続き、追加の名誉毀損訴訟や言論活動が発生。最終的に公的機関による再捜査は行われず、捜査上の結論は自殺のままとなっている。
  • 2023年 – 朝木事件を他殺の可能性ありと発言した元芸人の長井秀和氏が創価学会から提訴され、現在係争中(創価学会は「他殺説は事実無根」と主張し1100万円の損害賠償請求)。

以上のように、事件当時から現在に至るまで本件を巡っては真相に関する議論と対立が続いている。以下では、(1)警察捜査の内容と問題点、(2)自殺断定の是非を巡る論点、(3)事件の背景となった政治的状況について順に見ていく。

警察による捜査内容とその妥当性

公式発表と捜査経過: 警察(東村山署)は朝木明代氏の死亡当日から捜査を開始し、遺体検視や現場検証の結果、「他殺の形跡はない」と早期に断定しました。朝木氏はビル5階非常階段の手すりを自力で越えて転落したものと推定され、衣服や身体に争った跡がなく、手すりには本人が外側から掴んだとみられる手の跡も確認されました。さらに、転落直後に意識があった朝木氏自身が第一発見者に対し「大丈夫です」と答え、救急車を呼ぶ提案を拒否していたこと、周囲で不審人物の目撃情報が皆無だったことなども総合し、自殺と判断したとされています。警察発表によれば「もし他人が突き落としたのであれば身体は放物線を描いてビルから離れた地点に落下するはずだが、遺体は真下に落ちていた」ことも自殺の根拠とされました。

捜査手法への疑問: 他方で、この警察の初動捜査と結論については当初より妥当性を疑問視する声が上がりました。東村山署は朝木氏死亡からわずか数時間後の9月2日早朝には「事件性は薄い」と判断していますが、遺族や支援者は「鑑識(司法解剖)も行わないまま自殺と決め付けた」と批判しています。実際、遺族側の要請によって司法解剖が実施され鑑定結果が公表されたのは事件から約4年後であり、その間に名誉毀損訴訟などの法廷闘争が先行していました。国会でも1995年11月の衆参両院特別委員会で「東村山署が最初から自殺と決めつけ十分な捜査を行わなかったのではないか」と質疑が行われており、警察の現場検証の迅速さ証拠収集の徹底度に問題がなかったか問われています。

証拠の取り扱いと検視結果: 警察発表では「争った形跡なし」とされましたが、後に開示された司法解剖鑑定書には両腕の内側や手の甲に複数の皮下出血痕(青あざ)が記録されていました。これらは転落時に生じた損傷とも解釈できますが、遺族側は「他者ともみ合った痕跡ではないか」と指摘しています。一方、警察幹部や検察は「朝木氏転落前に人と争った気配はなく、また転落後も本人が助けを求めず『自分は落ちていない』と否定する発言すらしていた」ことから他殺の可能性を否定する見解を示しています。結果として公的捜査では他殺を示す決定的証拠は見つからず、1995年当時の捜査本部は第三者の関与はないとの結論を下しました。しかし、遺留品の管理や現場状況の調査について「事務所に残された仕事途中の書類や私物類の検証が不十分だった」「事件翌日に現場付近で遺留物(鍵)が発見されるなど見落としがあった」とも伝えられており、捜査の徹底さに疑問を呈する指摘は根強く残っています。

本当に自殺と断定できるのか?──疑念と異論の論点

朝木明代氏の死について、警察が発表した「自殺」とする結論に対して当時から現在まで多くの疑念と異論が提起されています。遺族・支援者を中心に「本当に自殺と断定できるのか」という問題が繰り返し議論されてきました。以下、主な論点を整理します。

  • 遺書や自殺動機の不在: 朝木氏の自宅や事務所から遺書は発見されておらず、直前まで議員活動や裁判準備(万引き冤罪への対応)に奔走していたことから、「死をほのめかす様子は皆無だった」と関係者は証言しています。特に死亡2日後の9月3日には創価学会に関するシンポジウムで講演する予定があり、事件前日にはその資料をワープロで作成中だった形跡も残されていました(事務所のパソコン画面に「創価学会問題シンポジウム」のレジュメが開かれたままだった)。将来の予定や仕事の途中経過を考えると、「自ら命を絶つ理由が見当たらない」とする見方があります。
  • 性格・状況的に自殺しそうにないとの証言: 周囲の同僚(草の根市民クラブの矢野穂積議員ら)や家族は「朝木さんは意志の強い明るい性格で、自殺なんて絶対にするわけがない」と主張しました。9月1日夜に朝木氏が事務所へ電話した際も「少し気分が悪いので休んで行きます」と伝えており、何ら自殺をほのめかすような言動はなかったとされています。また、事件の2年前頃から朝木氏や周辺人物に対し嫌がらせや脅迫(無言電話、放火未遂、意味不明な数字メッセージなど)が相次いでおり、「精神的に追い詰められていたのは事実だが、むしろ闘志を燃やしていた」とも伝えられています。これらの証言から、「万引き容疑の濡れ衣を着せられて悩んでいたとしても、自殺に至るとは考えにくい」という疑念が呈されました。
  • 不可解な転落状況: 事件現場の状況にもいくつかの不可解な点が指摘されています。通常、日本では飛び降り自殺を図る際に靴を脱いで揃えて置く習慣があると言われますが、発見時の朝木氏は靴を履いておらず靴の所在がすぐには確認できませんでした(※後に現場敷地内で発見)。また目撃証言はないものの、転落時刻には「女性の悲鳴を聞いた」という通行人の証言が報じられています。第一発見者である店長とのやり取りでは、朝木氏は倒れた状態で「飛び降りたのか?」と問われ「飛び降りてはいない」と否定する発言も録音テープに残っており、本人が自殺を否定していた可能性すら示唆されました。遺族側は非常階段の手すりに残された擦過痕について「朝木が手すりに必死にしがみつき抵抗した跡だ」と主張しており、これらの状況証拠は他殺の可能性を示すものだと強く訴えました。
  • 第三者関与の可能性: 当時、朝木氏は創価学会や公明党の不正疑惑を追及する急先鋒であり、その活動ゆえに創価学会側から執拗な妨害や攻撃を受けていたといいます。事実、朝木氏は創価学会員の脱会支援にも取り組んでおり、一部学会員から直接抗議やいやがらせを受けたケースもあったと報告されています。こうした背景から、「創価学会または関係者による口封じではないか」という他殺説が浮上しました。特に遺族の朝木直子氏(娘)と矢野穂積氏らは事件直後の記者会見で「朝木は殺されたんです」と断言し、創価学会の関与を強く示唆しました。陰謀論と距離を置く立場の者から見ても、「政敵である創価学会にとって朝木氏を殺害するメリットは乏しい」との反論はあるものの、遺族らは「創価学会員である担当検事が捜査を握り潰した可能性」や「公権力と宗教団体の癒着による事件隠蔽」まで疑いを向けています。こうした他殺・謀殺説は当時の週刊誌やワイドショーでも大きく取り上げられ、一種の社会現象となりました。

以上のように、「本当に自殺と断定できるのか」については真っ向から意見が対立しています。一方で裁判所が公式に他殺説を認めたことは一度もなく、警察・検察の公式見解も現在まで撤回されていません。むしろ後述するように、他殺説を唱えた遺族や雑誌側が名誉毀損裁判で敗訴し、「決定的な証拠がない以上、他殺と断定することは到底できない」という司法判断が示されています。このため確たる裏付けのない陰謀論に与するべきではないとの声も根強くありますが、遺族・支援者は今なお「再捜査によって真実を解明すべきだ」と訴え続けています。読者としても、公式発表をうのみにせず残された疑問点に目を向けることが求められていると言えるでしょう。

政治的背景:創価学会・公明党との対立と前後の事件

創価学会・公明党との対立姿勢: 朝木明代氏は1987年から東村山市議を務める中で、市政の不正追及や福祉向上に尽力する一方、創価学会および公明党の影響力と問題点を厳しく批判していました。特に創価学会員からの離脱者(脱会者)への人権侵害や嫌がらせを議会で取り上げ、その救済活動にも関与していたことから、創価学会側とは深刻な対立関係にあったとされています。例えば1995年当時、創価学会系の創価高校で起きた「学会脱会者への退学強要事件」を告発するなど、その活動はマスコミにも注目される存在でした。創価学会・公明党にとって朝木氏は「目の上のたんこぶ」とも言える存在であり、実際に議会内外で激しい論戦が交わされていた記録があります。

「万引き冤罪事件」の発生: こうした対立がエスカレートする中で起きたのが、1995年6月の万引き容疑事件でした。東村山市内の洋品店において朝木氏が店員から万引きの現行犯と疑われ通報されたのです。朝木氏は警察から3度にわたる取り調べを受けましたが一貫して否認し、「身に覚えのない冤罪であり、自分を陥れるための謀略だ」と主張しました。取り調べ後ただちに同僚の矢野議員と共に店を訪れ「なぜ被害届を出したのか」と詰問したことから、警察は「店を特定できたのは本人が犯行をしていたからではないか」と疑いを強めます。7月の取り調べでは、朝木氏は万引きがあった時間帯に矢野氏とレストランで食事をしていたとアリバイを提出しましたが、そのレシートが後日入手したコピーだったことや供述に食い違いが見つかり、警察はこれを意図的なアリバイ工作と判断しました。朝木氏は7月12日付で窃盗容疑で書類送検されてしまいます。

泥仕合となった名誉毀損裁判: 書類送検直後、朝木氏は逆に「この万引き事件自体がでっち上げだ」と反撃に転じました。「被害届を出した店主は創価学会員であり、学会の意を受けて私を陥れたのだ」とのコメントをマスコミ各社に発表し、店主を名誉毀損罪で刑事告発したのです。週刊新潮も「朝木事務所に“替え玉による陰謀”という情報が寄せられている」と矢野氏の談話を掲載し、万引き冤罪説を報じました。しかし皮肉にも、その直後に朝木氏本人が転落死してしまったため万引き容疑の刑事手続きは「被疑者死亡」により不起訴となり真相は闇に消えました。その後、遺族側は引き続き「万引きは創価学会による捏造だ」と主張し続けますが、店主や警察幹部はこれを否定。互いに名誉毀損で訴え合う泥仕合に発展しました。

実際、創価学会側は朝木氏死亡直後から週刊現代・週刊新潮・東村山市民新聞(矢野氏らが発行)に対し名誉毀損訴訟を相次いで提起し、「朝木明代の転落死に学会は関与していない」「万引き捏造説はデマである」と主張しました。裁判所も「他殺と断定する根拠は乏しく、創価学会関与説は真実と認められない」との判断を示し、週刊誌側・遺族側の敗訴が確定しています。特に遺族らが発行した『東村山市民新聞』の記事に対しては「万引き事件の捏造および殺害に貴会(創価学会)が関与した事実は存在せず、記事は事実に反するものでした」という内容の謝罪広告が紙面に掲載される事態となりました。一方、朝木遺族側も創価学会機関紙『聖教新聞』や雑誌『潮』『創価新報』などが掲載した「万引き・アリバイ工作・自殺」に関する記事を名誉毀損で提訴しましたが、こちらも「警察の公式発表など十分な根拠に基づく反論であり違法性はない」として遺族側の敗訴(請求棄却)に終わっています。このように法廷では朝木氏他殺説よりも警察発表に沿った自殺説の方が一定の信憑性を持つと判断されたことになり、遺族・支援者にとっては極めて不本意な結果となりました。

事件の影響と現在: 朝木明代氏の怪死事件は、創価学会と政治との関係に対する社会的関心を大いに高める結果となりました。1995年当時、公明党(創価学会の支持政党)は一時的に野党に転落し他党と新進党を結成していた時期で、自民党や共産党は創価学会への攻勢を強めていました。そうした政局の文脈もあり、本件は国会質疑や雑誌報道で創価学会批判の材料として取り上げられた面があります。一方で創価学会側は「東村山デマ事件」と位置付けて自らの無関係を主張し続け、現在まで関係者の名誉回復に努めています。実際、2023年には朝木氏転落死に言及した長井秀和氏(西東京市議)を創価学会が提訴し、他殺説を事実無根のデマと断じて法的措置をとる姿勢を改めて示しました。創価学会広報部や会員は「仮に他殺など企てても学会には何のメリットもなく、遺族側はすべての裁判で敗訴している。他殺説は個人的推測に過ぎない」と反論しています。

このように、本事件を巡っては政治的思惑も絡み事実関係と主張が錯綜した経緯があります。陰謀論的な見解には慎重になるべきですが、一方で権力や組織の圧力により何らかの真相が葬られている可能性について問題意識を持つことも大切です。警察捜査の在り方や権力と宗教の関係性という観点からも、本件は現在に至るまで示唆を与える事件と言えるでしょう。読者それぞれが入手できる情報をもとに、この不可解な転落死事件の真相について引き続き考えてみる必要があるのではないでしょうか。

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