小学生で人を殺めた少年が、父になり家族を殺めるまで|久田秀雄事件(八戸市)

不可解・不審死事件

事件の経緯

2007年6月28日午前11時頃、青森県八戸市内のアパート一室で、歯科衛生士の妻(46歳)と長男(13歳)、次男(10歳)、三男(6歳)の母子4人が遺体で発見されました。発見者は家族の親族で、室内には凄惨な光景が広がっていたと言います。遺体の状況から、次男には首に刃物による切り傷があり、他の3人には首を絞められた痕が確認されました。長男・三男・妻には抵抗した跡がなく、唯一次男のみ手に防御創があったことから、他の3人は就寝中に襲われ、次男だけが目覚めて抵抗した可能性が高いとされています。死亡推定時刻は前日27日午後8時20分頃から28日未明にかけてと推定されました。

八戸署は4人が他殺された殺人事件として捜査を開始しました。当初から家族内の犯行が疑われたのは、現場が施錠された室内であり、外部から侵入した形跡がなかったためです。実際、室内からは一家の主である久田秀雄さん(当時43歳)の血の付いた衣服や包丁が見つかり、それらから次男の血液が検出されました。また包丁の柄から久田さん本人の掌紋(手のひらの指紋)が検出されています。こうした物証や現場状況から、警察は久田さんが何らかの事情を知っているとみて行方を追うことになりました。

一方、同日6月28日の午後4時20分頃、事件現場から約40キロ離れた岩手県一戸町の県道脇駐車場で、青森県警の捜査員が久田さんの車両を発見しました。職務質問のため車の窓をノックすると、運転席にいた久田さんは一度は免許証を差し出そうとする素振りを見せましたが、突如態度を一変させます。彼は突然窓を閉めて急発進し、後方の捜査車両に衝突しました。その直後、手にしていたカッターナイフで自らの首を突き刺し、血を流しながらアクセルを踏み込んで車ごと約10メートル下の崖下へ転落したのです。捜査員が必死に窓を破り救出しましたが、久田さんは首からの大量出血により搬送先の病院で午後5時24分に死亡が確認されました。死因は頸部を切ったことによる失血死でした。こうして、事件発覚からわずか数時間後に主要容疑者である久田さん本人が自殺し、本事件は急転直下の結末を迎えました。

父・久田秀雄の人物像

事件で妻子を手にかけ、自ら命を絶った久田秀雄さんとはどのような人物だったのでしょうか。近所の人々の証言や周囲の関係者の話から浮かび上がるのは、「ごく普通」で「家族思いの優しいお父さん」という意外な姿でした。久田秀雄さん(43歳)は八戸港で大型船を引くタグボートの航海士として勤務し、妻の奈津美さん(46歳、仮名)は自宅近くの歯科医院に20年以上勤務するベテラン歯科衛生士でした。共働きではありましたが、夫婦仲は良く、それぞれ子煩悩な両親として知られていました。久田さんは子どもたちが通う小学校でPTA副会長を務め、町内会の行事にも家族5人そろって積極的に参加していたといいます。

近隣住民によれば、久田さんは控えめで温厚な性格で、子どもを叱るときも怒鳴るのではなく優しく諭すように話しかけていたとのことです。妻の奈津美さんは明るく社交的な人柄で、いつも家族写真をバッグに入れて持ち歩き、会う知人ごとに写真を見せては自慢していたといいます。実際、長男の直人くん(13)は中学校の卓球部に所属し、次男の進くん(10)の将来の夢は「世界一の料理人」、三男の渉くん(6)は近所の友達に元気よく「おはよう!」と挨拶する明るい子でした。そんな微笑ましいエピソードが語られるほど、久田家は周囲から「憧れるよね」と言われる仲睦まじい家族に見えていたのです。

しかし、その裏では久田さんは誰にも言えない悩みや秘密を抱えていました。事件後の捜査で明らかになったのは、久田さんがここ数年にわたり消費者金融や銀行から数百万円単位の借金を重ねていたという事実です。家庭や近隣には経済的困窮を感じさせない生活を送っていた久田さんですが、実際には多額の債務を負って追い詰められていた可能性があります。さらに、後述するように彼には家族ですら知らなかった“忌まわしい過去”が存在していました。久田さんは表向きは模範的な夫・父親として振る舞いながら、内面では借金の問題や自身の過去に由来する不安を一人で抱え込んでいたのかもしれません。その意味で、彼は長年にわたり二重生活を送っていたとも言えるでしょう。

犯行後の奇妙な行動

家族4人を手にかけた後、久田秀雄さんは自殺までの短い間に不可解な行動を取っています。妻子殺害後とみられる6月28日未明、彼は八戸市内で別の凶行に及んでいました。事件当日の午前2時10分頃、久田さんは八戸市城下三丁目にあるパチンコ店「パーラーポパイ」に押し入りました。野球帽とマスクで顔を隠し、包丁(刃渡り約20cm)を手に店内にいた男性店員ら3人に襲いかかったのです。久田さんは店員たちに刃物を突き付け、「静かにしろ」と脅しながらビニールテープで手足を縛り上げ、現金を要求しました。突然の強盗侵入に店員たちは拘束されてしまいましたが、一人が隙を見て裏口から逃げ出すことに成功します。非常ベルで外部に助けを求められたこともあり、久田さんは金を奪うことができないまま何も取らずにその場から逃走しました。

深夜のパチンコ店強盗未遂は一見、家族殺害事件とは無関係にも思えました。しかし、店内の防犯カメラに映った犯人の体格や動きが久田さんに似ていたこと、そして現場に残されていたペットボトルから久田さんの子どもの指紋が検出されたことにより、この強盗未遂事件も久田さんの犯行だったと警察は断定しました。妻子を殺めた直後、彼は逃走資金を得るために手近な現金入手先として深夜営業のパチンコ店を襲った可能性が高いのです。

強盗未遂に失敗した久田さんは、そのまま自家用車で八戸市から南へ逃走しました。青森県境を越え、隣接する岩手県方面へ向かったとみられます。そして冒頭で述べたように、28日午後4時過ぎに岩手県一戸町で警察に発見され、自決する結末となりました。家族を殺した当日中に遠方で本人が命を絶ったことで、犯人逮捕や動機の直接の聞き取りが不可能となり、この事件は真相を本人の胸中に残したまま終わることになります。

なお、事件前の久田さんの行動を捜査当局が洗い直したところ、同じ6月中旬に八戸市内で起きていたいくつかの不審な事件への関与も浮上しました。具体的には、6月中旬に市内のビル内に入居していた消費者金融会社の入口ドアが放火される事件や、個人経営の喫茶店店主の男性が自宅前で何者かに襲われ負傷した事件などが相次いで報告されていました。いずれも犯人不明のまま未解決でしたが、その後の調べで久田さんが多額の借金を抱えていた事実が判明したこともあり、警察は「消費者金融への放火」や「喫茶店主襲撃」といった事件についても久田さんの関与を疑いました。しかし、これらについては決定的な証拠が得られず、久田さんの犯行と断定するには至っていません。もし彼が関与していたとすれば、借金返済に行き詰まり、金策や借金帳消しを狙った犯行をエスカレートさせていった可能性も考えられます。結果的に、放火・強盗未遂・家族殺害・自殺と、一連の出来事が短期間に集中して発生しており、久田さんは事件前後に追いつめられた精神状態で連鎖的に犯罪行動を起こしていたようにも見えます。

捜査の展開と警察の結論

久田さんの死亡後、警察は残された証拠と経緯から事件の真相解明を進めました。前述の通り、現場からは久田さんのものと思われる衣服や包丁が押収され、被害者である次男の血液型やDNA型と一致しています。包丁の柄からも久田さん本人の掌紋が検出されており、物証の面でも彼が犯人であることはほぼ疑いようがありませんでした。また、室内侵入の形跡が皆無であること、玄関や窓の施錠が荒らされていなかったことから、外部の第三者による犯行の線は否定されました。捜査本部は、久田秀雄が妻子4人を殺害した後、逃走して自殺したとの見方を固め、事件は事実上「被疑者死亡のまま書類送検」という形で幕引きとなります。

実際、惨劇から3ヶ月後の2007年9月25日、青森県警八戸署は久田秀雄容疑者(43)を被疑者死亡のまま殺人と強盗致傷容疑で書類送検しました。そして10月1日付で、検察は久田容疑者を「被疑者死亡」の理由により不起訴処分としています。生存していれば極めて重大な罪に問われるところでしたが、自ら命を絶ったため司法の場で裁かれることはありませんでした。

警察はこの事件の動機について、「久田容疑者の抱えていた金銭的な問題が背景にある」とする見解を示しました。数百万にのぼる借金による生活苦・経済的行き詰まりが妻子殺害という絶望的な犯行に至った要因であり、深夜の強盗に及んだのは逃走資金を得る目的だったのではないか、と推察されています。捜査関係者の多くは、久田さんが借金苦による自己破綻と絶望から「家族もろとも命を絶つ道」を選んだのではないか、と見ています。いわば「無理心中」の類型として事件を位置付ける見解ですが、一方でその手口には異例の点もありました。後述のように、久田さんは犯行後に資金獲得や逃亡を図っており、典型的な心中(犯行後すぐ自身も命を絶つケース)とは異なる行動を取っているからです。

当初この事件は、警察発表や報道において「一家心中事件」あるいは「無理心中」として受け止められました。一家の大黒柱である父親が家族を道連れに自殺を図ったという、一見するとありがちな家庭内惨劇に思われたのです。しかし、その後の捜査で浮かび上がった強盗未遂事件や久田さんの過去の経歴は、事件の様相を一変させました。警察は物証と状況から犯人像を確定しましたが、動機の深層については様々な角度から検証が行われ、メディアや有識者からも議論が起こりました。

少年時代の前歴

久田秀雄さんには、家族ですら知らなかったであろう少年時代の重大な前科がありました。それは今から32年前の1975年(昭和50年)にまで遡ります。八戸市出身の久田少年は、小学生時代から非行傾向があり、窃盗を繰り返したり、小学3年生の頃には忍び込んだ他人の家で火遊びをして障子に火をつけ家屋を全焼させるなど、幼い頃から問題行動を重ねていました。

そして1975年12月21日、久田さんが11歳・小学5年生の時に八戸市内で発生した事件は、当時の地域社会を震撼させる凶行でした。その日、八戸市小中野町のアパートで一人暮らしの29歳の女性が何者かに襲われ、全身を滅多刺しにされて死亡する事件が起きたのです。白昼の出来事で、女性は「早く病院に連れて行って!」と叫びながら血まみれの姿でアパートから逃げ出しましたが、近所の人々に助けられ運ばれる途中で息絶えました。目撃者の証言によれば、女性の後ろを“小学生の男の子”が走り去るのが見えたといいます。その少年こそが久田秀雄少年でした。

警察の調べで明らかになった犯行の詳細は、驚くべきものでした。久田少年は以前住んでいた近所のアパートに来ており、顔見知りだったその若い女性の部屋に、ドアが開いていた隙に忍び込みました。テーブルの上に置いてあった1万円札を4~5枚(数万円)盗もうとしたところ、ちょうど外出先から女性が帰宅して鉢合わせしてしまいます。女性に「泥棒!」と叫ばれて取り押さえられそうになったため、久田少年は咄嗟に台所にあった包丁を2本も掴み取り、女性の首や背中をめった刺しにして殺害してしまいました。犯行後、久田少年は現場近くの物置小屋に身を潜めましたが、翌日の昼頃にアパートに戻ってきたところを補導(保護)されました。発見時、少年は物置にあったナイロン紐で自分の両手を縛り「誰かに襲われた被害者」のように装っていましたが、稚拙な狂言はすぐに見破られています。

この小学生による殺人事件は当時大々的に報じられ、少年法の壁もあり実名こそ伏せられましたが、地元では語り草となりました。しかし久田少年は14歳未満(刑事責任年齢以下)だったため刑事裁判にはかけられず、少年院送致の措置が取られました。以後、中学3年になる頃まで少年院に収容され、更生プログラムを受けたものとみられます。少年院退院後は、久田少年は地元の水産高校に進学し無事卒業しました。その後、九州の水産会社に就職して社会人となり、しばらくは遠方で働いていたようです。

久田さんが再び八戸に戻ってきたのは事件の約20年前(1980年代後半)で、その頃に奈津美さんと出会い結婚しました。奈津美さん(今回の被害者である妻)が夫・秀雄のこの過去を結婚前に知っていたかどうかは定かではありません。夫婦の交際当時、久田さんはすでに成人し前科も少年時代のもので記録は表沙汰になっていなかったため、普通に生活している限り誰も気付かなかった可能性があります。事実、今回の事件直後ですら地元紙はこの少年時代の前歴に触れず、当初警察も久田さん本人から聞き取りができない状況もあってか、32年前の事件との関連は公にはされませんでした。久田さんは少年時代に人を殺めるという極限の体験を経たものの、更生して長年真面目に社会生活を送り、家庭を築いたものと周囲は認識していたのです。表向きは“過去を乗り越えた一市民”として、彼の暗い前歴を知る者はほとんどいませんでした。

社会的・心理的背景(借金苦と二重生活の果て)

多くの家族を巻き込む事件と同様に、この事件の背景にも社会的・心理的要因が指摘されています。まず大きく取り沙汰されたのは借金問題です。久田さんは前述の通り複数の金融業者から数百万円規模の借入を重ねており、事件当時かなりの債務を抱えていたことが明らかになっています。一般的に、これほどの借金を重ねる原因としてはギャンブルや浪費、事業失敗、あるいは他人に言えない出費(例えば二重生活や遊興費)など様々な可能性が考えられますが、具体的な使途について報道はなされていません。ただ、少なくとも家族や近隣に知られることなく借金を重ねていたという事実からは、久田さんが家族に隠れて経済的苦境に陥っていたことが読み取れます。

「二重生活」という言葉は、彼の置かれた状況を端的に表しているかもしれません。久田さんは家庭では良き夫・良き父を演じており、仕事もきちんとこなす真面目な男性でした。一方で心の内では、少年期の重大な犯罪歴という消し去れない過去と、膨れあがる借金という現在進行形の問題に板挟みになっていたのです。周囲の誰にも本当の悩みを打ち明けられず、長年にわたりプレッシャーに耐えてきたことは想像に難くありません。実際、久田さんの友人は事件後に週刊誌の取材に対し、「アイツは無理してたんだよ。無理して良き父、良き夫を演じてたんだと思う。(中略)抑え続けてきた不満が、何かのきっかけで爆発したとしか思えない」と語っています。穏やかな人格で知られた久田さんが突然凶行に及んだことに対し、身近な人ほど「よほど追い詰められていたのではないか」と受け止めたことが窺える証言です。

では、久田さんはなぜ妻子という最も愛すべき存在を手にかけてしまったのか――その点については、「無理心中」という枠組みで語られる部分と、それだけでは割り切れない側面の両方があります。無理心中とは、本人の意思に反して家族などを殺害し自分も自殺する行為を指し、多くの場合、経済的・精神的な絶望から「自分だけ死ねない、残される家族も不憫だ」という歪んだ心理に起因すると言われます。久田さんのケースも表面的にはそれに当てはまるように見えました。借金に絶望した父親が妻子を道連れに自死した――動機だけを取り出せばそんな図式です。

しかし、久田さんの行動には典型的な心中とは異なる点がありました。普通、心中事件では犯行後すぐに自殺するか、その場で命を絶つことが多いのに対し、彼は妻子を殺害した後も生き延び、深夜の強盗逃走を図っているのです。このことから、「本当に彼は最初から一家心中するつもりだったのか?」という疑問も生まれました。もしかすると彼には当初、自殺する明確な意思はなく、「家族を殺して借金から逃れ、自分は逃亡する」という身勝手な計画だった可能性も考えられます。しかし逃走の末に警察に追い詰められたことで観念し、そこで初めて自殺を選んだのではないか、という見方です。実際、警察車両に衝突し自傷して転落した一連の行為は、自暴自棄になった末の突発的な自殺行為とも受け取れます。

他方で、家族を殺めた直後に強盗に及んだ行動について「逃走資金を得るため」という説明が成り立つ以上、やはり彼には「生き延びて逃げよう」という意思があったのだと言わざるを得ません。この点が、一般的にイメージされる「一家心中」(自分も含めた家族全員を死なせる)と久田さんの事件とのズレです。結果的に彼自身も死亡したため外形的には一家心中と同じ結末ですが、その途中経過を見ると、動機や心理は必ずしも“一緒に死のう”ではなかった可能性があります。

専門家の中には、本件を「家庭内殺人事件」として位置付け、心中というより連続した犯罪行為と捉えるべきだという指摘もありました。一連の行動は計画性に欠け場当たり的であり、追い詰められた犯人が次第に暴走していった顛末と見ることもできます。いずれにせよ、久田さんの内面では、「家族に迷惑をかけたくない」という思いと「自分だけでも助かりたい」という葛藤があったのかもしれません。長年封じ込めてきた秘密(少年時の凶行)と現在の重荷(多額の借金)が重なり合い、精神的に追いつめられた末に、彼は最悪の選択をしてしまったのでしょう。

週刊新潮の取材班は事件を総括して、「忌まわしい過去をひた隠しにして生きていくことはもはや限界だったのだろうか」と述べています。家族にも明かせぬ罪の記憶と、崩れゆく生活という二つの重圧に挟まれ、久田さんの心の支えは限界に達していたのかもしれません。その果てに起きたのがこの悲劇だったとも考えられるのです。

地域社会・報道の反応

4人もの尊い命が奪われたこの事件は、八戸市の地域社会に大きな衝撃を与えました。近隣住民たちは「お父さんは優しくて、お母さんは明るい、見本にしたいような仲良し家族だったのに…」と口々に語り、信じられないといった様子でした。PTAで顔なじみだった保護者や学校関係者も、事件の報に接し言葉を失いました。「久田さんのような家族って憧れるよね」とまで話していた友人もいたほどで、地元では理想の家庭として知られていた一家に何が起きたのか、当初誰も理解できなかったのです。地域では臨時の緊急集会や相談窓口が設置されるなど、事件直後は住民の不安と悲しみへの対応に追われました。

マスコミ各社も連日この事件を報じました。当初の報道では「八戸で一家4人死亡、父親行方不明」というセンセーショナルな見出しで伝えられ、警察が父親の行方を追っていることから一家心中の可能性が示唆されました。また、直後に判明した久田さんの岩手県内での自殺により、「父親が責任を認め命を絶った」といった論調で速報されました。日本では折しも家庭内殺人や親による子殺しのニュースが相次いでいた時期でもあり、「またか」という受け止めをする向きもあったようです。しかし、本件が他の事件と決定的に異なったのは、加害者である父親の特異な経歴が後から判明した点でした。

事件発生から約2週間後、週刊朝日(2007年7月13日号)や週刊文春(2007年7月12日号)などの雑誌報道が、久田秀雄さんが32年前に少年による殺人事件を起こしていた同一人物であることをスクープしました。この報道は全国に大きな驚きをもって受け止められました。地元紙の東奥日報やデーリー東北などは、少なくとも事件発生直後からしばらくの間、その事実に触れていませんでしたt。警察発表でも公式には過去の事件との関連は明かされておらず、地元記者も気付かなかったのか伏せていたのか、32年前の「少年A」と今回の久田秀雄さんが同一人物という点は報道されなかったのです。それだけに、週刊誌が実名報道でこの繋がりを明らかにした時、一般の人々に与えたインパクトは計り知れませんでした。「あの時の少年が、家庭を持って父親になり、そしてまたこんな惨劇を…」と、多くの人が言葉を失ったと伝えられます。

マスメディアの論調も、事件当初と週刊誌報道後ではやや変化しました。事件当初は「借金苦による無理心中か」といった同情交じりのトーンや、家庭内の悲劇としての扱いが目立ちました。しかし、久田さんの過去の殺人が明らかになると、一転して事件を猟奇的な連続殺人の様相で捉える向きも出てきました。週刊新潮は「平成の怪事件簿」という特集の中で本事件を取り上げ、「当初、無理心中と思われた事件は、にわかに猟奇的な色彩を帯びていった」と評しています。一家心中というより、「長年封印されていた狂気が再び噴き出した事件」とでもいうような論調です。もっとも、こうした書き方に対しては、「少年時代の罪をことさらに結び付けて刺激的に報じすぎではないか」という批判も一部にはありました。久田さんは少年院を出て更生し何十年も真面目に暮らしていたのだから、単純に“根っからの鬼畜”のように描くのは行き過ぎだという指摘です。報道各社は難しい判断を迫られましたが、結果的に「父親の異様な前歴」という点は大々的に報じられ、世間の関心もその点に集中する形となりました。

地域社会の反応としては、被害に遭った母子4人への深い哀悼とともに、「なぜ誰も彼(久田さん)の異変に気付けなかったのか」というやるせなさが語られました。傍目には順風満帆に見えた一家の内部で進行していた悲劇を未然に防ぐことはできなかったのか――事件後、地域の人々の間ではそんな悔恨の声も聞かれたといいます。当時を知る八戸市民のブログには「最終的に地元の人々はこの事実をどう受け止めたのか…大きな謎が残ってしまった」との記述もあります。それほどまでに、久田さんの二重生活と突然の狂気は、身近な者にも計り知れないものだったのでした。

この事件は、日本社会にいくつかの課題を投げかけました。借金問題と家庭崩壊、表面化しにくい中年男性の鬱屈、そして少年犯罪者の更生と再犯のリスク…。幸せそうに見えた家庭が一夜にして崩壊した事実は、「どんな家庭にも起こり得るのでは」という不安を人々に抱かせもしました。事件から年月が経った現在でも、八戸の地元では折に触れ語られる悲劇として記憶されています。亡くなった妻子4人の無念を思うと同時に、「もし久田さんがもっと早く助けを求められていたら」「周囲が異変に気付いていれば」といった後悔が残る痛ましい事件でした。

参考資料: 本記事は事件当時の新聞報道、週刊誌記事、および裁判資料(不起訴処分のため公判無し)に代わる警察発表などをもとにまとめています。主要な情報源として、事件から約12年後のルポルタージュ記事dailyshincho.jpdailyshincho.jpや週刊誌報道dailyshincho.jpdailyshincho.jp、地元紙の記事引用hachinohe-konjaku.blogspot.comhachinohe-konjaku.blogspot.comなどを使用し、事実関係の裏付けを行っています。事件の詳細や背景についてはデイリー新潮の記事dailyshincho.jpdailyshincho.jpおよび週刊文春記事(2007年7月12日号)dailyshincho.jp等に詳しく、過去の前歴については当時のデーリー東北新聞の報道記録hachinohe-konjaku.blogspot.comや関係者の証言も参照しました。以上の情報を踏まえ、遺族や地域社会への配慮を心がけつつ事件の全貌を報じています。

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