I. はじめに
飯塚事件は、1992年2月20日に福岡県飯塚市で発生した、小学1年生の女児2名が登校途中に誘拐され、殺害された痛ましい事件である。事件の翌日には遺体が発見され、約2年半後の1994年9月に久間三千年氏が逮捕された。久間氏は逮捕当初から一貫して無実を主張し続けたが、2006年に死刑判決が確定し、2008年に刑が執行された。
本事件は、直接的な証拠が乏しい中で状況証拠のみで有罪が認定された点、特に主要な証拠とされたDNA鑑定の信頼性や目撃証言の信用性に対して重大な疑義が呈されていることから、現在に至るまで「冤罪の可能性」が強く指摘されている。死刑執行後も再審請求が継続している状況は、日本の刑事司法制度、とりわけ死刑制度の運用と、冤罪防止のための再審制度のあり方に対し、極めて深刻な問いを投げかけている。
この事件が単なる過去の犯罪として終わらず、今なお議論がくすぶり続けていることは、その本質的な特徴を形成している。再審請求が繰り返され、死刑が執行された後も疑念が晴れない状況は、司法の公正性に対する社会的な不安が根強く存在することを示している。飯塚事件は、個別の犯罪事実を超え、日本の死刑制度や再審制度が抱える根本的な問題、すなわち司法の制度そのものが内包する危うさを象徴する事案として位置づけられている 5。したがって、本事件の検証は、その個別の事実を理解するだけでなく、日本の刑事司法制度が直面する広範な課題と、特に不可逆的な死刑判決における誤判の可能性、そして司法の誤りを是正するメカニズムの適切性を深く考察するために不可欠である。
II. 事件の発生と捜査
飯塚事件は、1992年2月20日午前8時30分頃から8時50分頃にかけて、福岡県飯塚市大字潤野付近の路上で発生した。潤野小学校に登校中であった小学1年生の女児2名(当時7歳)が、この時間帯に誘拐されたとされている。司法解剖の結果、2人の死亡推定時刻は同日午前9時30分以前とされた。
誘拐の翌日、2月21日の昼頃、福岡県甘木市(現:朝倉市)と嘉穂郡を結ぶ国道322号線沿いの山中(通称八丁峠)で、団体職員の男性によって2女児の遺体が発見された。遺体には性的暴行が加えられた上で、絞殺されていたことが判明した。さらに翌日の2月22日には、遺体発見現場から約3km離れた八丁峠沿道の山中で、被害者2人のランドセルや着衣の一部が道路から投げ捨てられたような状態で遺棄されているのが発見された。
事件発生から約2年7ヶ月後の1994年9月23日、飯塚市内に住む当時54歳の男性、久間三千年氏が死体遺棄容疑で逮捕された。この逮捕の根拠とされたのは、DNA鑑定と繊維鑑定であった。その後、久間氏は同年10月14日に殺人容疑で再逮捕され、11月5日には殺人罪および略取誘拐罪でも追起訴された。久間氏は逮捕当初から、そしてその後の裁判の全過程において、一貫して犯行を否認し、自身の無実を主張し続けた。
事件発生から逮捕までに約2年半という長い期間を要したことは、捜査が直ちに犯人を特定できる直接的な証拠に恵まれなかったことを示唆している。最終的に逮捕の決め手となったのがDNA鑑定や繊維鑑定といった科学的証拠であったことは、初期捜査の困難さと、間接的な証拠に大きく依存せざるを得なかった状況を物語っている。この状況は、後の裁判過程で証拠の信頼性が厳しく問われることとなる伏線となった。
また、久間氏が逮捕から死刑執行に至るまで、一度も自白することなく、一貫して無実を訴え続けた事実は、本事件の司法判断に対する根本的な疑念を深める要因となっている。自白という強力な証拠が存在しない中で有罪を立証するためには、検察側は客観的な証拠のみで合理的な疑いを超えた証明を行う必要があった。久間氏のこの揺るぎない姿勢は、事件全体を「冤罪の可能性」という視点から再検討させる契機となり、裁判所が提示した間接証拠の解釈と評価の厳密性が、極めて重要であることを浮き彫りにした。
III. 裁判の経緯と確定判決
飯塚事件の裁判は、久間三千年氏の一貫した無実の主張と、検察側が提示する状況証拠の評価を巡る攻防が中心となった。
第一審から最高裁までの推移
久間氏の初公判は、事件発生から約3年後の1995年2月20日に福岡地方裁判所で開かれた。久間氏は捜査段階から公判に至るまで、一貫して犯行を否認し、無罪を主張した。しかし、福岡地方裁判所(陶山博生裁判長)は1999年9月29日、久間氏を犯人と認定し、死刑判決を言い渡した。
控訴審では、福岡高等裁判所が2001年10月10日に控訴を棄却し、第一審の死刑判決を維持した。最終的に、最高裁判所第二小法廷(滝井繁男裁判長)は2006年9月8日、「被告人が犯人であることについては合理的疑いを超えた高度の蓋然性がある」として、5裁判官全員一致の意見で上告を棄却する判決を宣告した。これにより、同年10月8日付で久間氏の死刑が確定した。
有罪認定の根拠と主要な証拠
飯塚事件において、久間氏と事件を直接的に結びつける証拠は存在せず、有罪認定は以下の複数の状況証拠を積み重ねることでなされた 5。
DNA鑑定: 被害女児の遺体から検出されたDNA型と久間氏のDNA型が一致したとされるDNA鑑定(MCT118型鑑定)が、最も重要な証拠とされた。遺体付近の血痕や膣内等の第三者の血液が久間氏のDNA型と一致すると認定された。
繊維鑑定: 被害者の着衣等に付着していた繊維片が、被告人車であるマツダステーションワゴン・ウエストコーストの座席シートの繊維片と特徴が一致または類似するとされた。これは、被害児童が犯人車に乗せられた際に付着した可能性が高いと解釈された。
車内の血痕・尿痕: 被告人車の後部座席やフロアマットから、被害者A田の血液型と同じO型の人血痕と人尿痕が検出された。被害児童2名とも失禁と出血があったことから、久間氏が犯人であれば、被告人車内で被害児童を殺害または運搬した際に付着したと説明された。
目撃証言(遺留品発見現場付近): 遺留品発見現場の直近で、紺色ワンボックスタイプの自動車と中年の男が目撃されたとする供述が存在した。
目撃証言(誘拐現場直近): 被害児童が最後に目撃された場所で、同時刻に紺色、後輪ダブルタイヤでリアウインドーに黒っぽいフィルムを貼ったマツダのワンボックスタイプの自動車が目撃されたとする供述があった。
久間氏の病状: 犯行当時、久間氏が糖尿病による亀頭包皮炎に罹患しており、亀頭の粘膜に裂傷があり容易に出血する可能性があったことが、膣内等での第三者の血液と合致するとされた。
アリバイ: 久間氏に犯行の機会があり、アリバイが成立しないとされた。
死刑判決の確定と執行
2006年10月8日に久間氏の死刑が確定した後、2008年10月28日に刑が執行された。この死刑執行は、確定から約2年という「異例の早さ」であったことが指摘されている。特筆すべきは、足利事件においてDNA再鑑定が行われる見通しが広く報道された直後(2008年10月17日報道)に、飯塚事件の死刑執行命令が発令(10月24日)されたことである。
死刑判決が直接証拠なしに状況証拠のみで導かれたことは、日本の刑事司法における重大な脆弱性を示している。自白や決定的な物的証拠がない中で、複数の間接的な手がかりを積み重ねて死刑という不可逆的な判断に至ったことは、個々の証拠の信頼性と、それらを総合的に評価する際の厳密性が極めて重要であることを浮き彫りにする。わずかな疑念も許されない死刑判決において、この証拠構造は本質的なリスクを孕んでいる。
また、足利事件と同一のDNA鑑定手法が用いられ、かつ再鑑定の可能性が報じられた直後に飯塚事件の死刑が執行されたという「異例の早さ」とタイミングは、司法の独立性、そして死刑制度の公正な運用に対する深刻な疑念を生じさせる。この時間的な近接性は、司法制度が、過去の判決の正当性を維持するため、あるいはDNA鑑定の信頼性に関する広範な問題が表面化するのを避けるために、死刑執行を急いだのではないかという推測を招く。これは、制度の維持という目的が、個人の生命という最も根源的な権利の保護よりも優先されたのではないかという、司法の倫理的基盤に深く関わる問題を提起している。
Table 1: 飯塚事件 裁判の主要経緯と判決
日付 | 出来事 | 内容 | 関連情報 |
1992年2月20日 | 事件発生 | 福岡県飯塚市で小学1年生女児2名が誘拐・殺害される | 死亡推定時刻は同日午前9時30分以前 |
1994年9月23日 | 久間氏逮捕 | 死体遺棄容疑で久間三千年氏(当時54歳)が逮捕される | DNA鑑定と繊維鑑定が根拠とされる、久間氏は一貫して無実を主張 |
1994年10月14日 | 久間氏再逮捕 | 殺人容疑で再逮捕 | |
1994年11月5日 | 久間氏起訴 | 殺人・略取誘拐罪で追起訴 | |
1995年2月20日 | 第一審初公判 | 福岡地裁で公判開始 | 久間氏は犯行を否認 |
1999年9月29日 | 第一審判決 | 福岡地裁、久間氏に死刑判決を言い渡す | 直接証拠なし、状況証拠(DNA、繊維、血痕、目撃証言、病状、アリバイ)で有罪認定 |
2001年10月10日 | 控訴審判決 | 福岡高裁、控訴を棄却し死刑判決を維持 | |
2006年9月8日 | 最高裁判決 | 最高裁、上告を棄却し死刑判決を維持 | 「合理的疑いを超えた高度の蓋然性がある」と判断 |
2006年10月8日 | 死刑確定 | 久間氏の死刑が確定 | |
2008年10月17日 | 足利事件報道 | 足利事件でDNA再鑑定見通しが報道される | 飯塚事件と同じMCT118型鑑定が用いられた |
2008年10月24日 | 死刑執行命令 | 森英介法務大臣が死刑執行を命令 | 足利事件報道の直後 |
2008年10月28日 | 死刑執行 | 久間氏に対する死刑が執行される | 確定から約2年という異例の早さ |
IV. 証拠の信頼性に関する考察
飯塚事件の有罪認定は複数の状況証拠に基づいており、特にDNA鑑定と目撃証言がその中心をなしていた。しかし、これらの証拠の信頼性については、死刑確定後も継続的に強い疑義が呈されている。
DNA鑑定(MCT118型鑑定)の信頼性と問題点
確定判決は、被害女児の遺体付近の血痕や膣内容物等から検出された犯人由来と認められる血液のMCT118型が、久間氏の型と一致していることを有罪認定の根拠の一つとした。
しかし、このDNA鑑定には複数の問題点が指摘されている。飯塚事件で用いられたMCT118型鑑定は、後に再審無罪が確定した足利事件と同じ手法であり、ほぼ同時期に同じ科学警察研究所(科警研)のほぼ同様のメンバーによって実施されたものである。足利事件でDNA再鑑定によって冤罪が明らかになった事実は、飯塚事件の鑑定の信用性にも重大な疑問を投げかけることとなった。
さらに、第1次再審請求において、科警研のDNA鑑定には写真の改ざんなどの極めて重大な問題点があったことが明らかになった。弁護団は、鑑定における目盛りとなるラダーマーカーの重大な欠陥、電気泳動像のバンドの幅が広すぎ形が悪く型判定が困難であること、現場試料と被告人試料を同時に電気泳動していないといった、数々の技術的な問題点を指摘した。裁判所もこれらの指摘を受け、「MCT118型鑑定の証明力減殺」「犯人と事件本人のMCT118型が一致したと認めることはできない」と判断した(ただし、一致しないとも認められないとした)。にもかかわらず、裁判所は「MCT118型鑑定の一致を除いたその他の状況事実を総合すれば、事件本人が犯人であることにつき合理的な疑いを超えた高度の立証がされている」として、再審請求を棄却した。加えて、科警研が多くの鑑定試料を全て鑑定で消費してしまったと主張しており、再鑑定が不可能であるという重大な問題も存在している。
目撃証言の信用性と変遷
有罪認定の根拠とされた目撃証言は二つ存在する。一つは誘拐現場とされる通学路で被害女児を目撃したとするT証人(女性Pさん)の供述であり、もう一つは遺留品発見現場付近で久間氏の所有車両と特徴が一致する車両を目撃したとする供述である。
誘拐現場の目撃者(T証人/女性Pさん)に関しては、T証人の供述調書が作成される2日前に、担当警察官が久間氏宅を訪れ、久間氏の車の特徴に関する情報を集めていた事実が明らかになっている。T証人の供述には「ホイールキャップは見えないはずだがそれが見えた」「車のラインはなかった」など、警察官による誘導が疑われる極めて詳細な内容が含まれており、事件発生から数ヶ月経過し、DNA鑑定結果が出た後に証言が始まったという問題点も指摘されている。さらに、第2次再審請求において、この目撃者(女性Pさん)が「捜査機関の強引な誘導で供述調書が作成され、被害女児を見たのは事件当日ではない」と新たに証言した。しかし、福岡地裁は女性Pさんの新証言の信用性を否定し、「警察官がこのような捏造を行うのは考え難い」「当時の供述は具体性に富む」「証言に変遷が見られる」と判断した。弁護団が提出した再現実験報告書も退けられている。
遺留品発見現場付近の目撃者(男性Aさん)についても、第2次再審請求において、男性Aさんが「事件当日に後部座席に2人の女児を乗せた犯行使用車両と思われる車を目撃したが、久間氏の所有車両とは特徴が異なり、運転していた人物も久間氏ではなかった」と新たに証言した。福岡地裁は男性Aさんの新証言の信用性も否定し、「具体的根拠の欠如」「観察時間の不足」「証言の変遷と矛盾」「目撃時刻が死亡推定時刻と整合しない」などを理由に挙げた。
その他の状況証拠の評価
繊維片: 被害児童の着衣から、被告人車と同型のマツダステーションワゴン・ウエストコーストの座席シートの繊維片と特徴が一致または類似する多数の繊維片が発見された。
被告人車内の血痕及び尿痕: 被告人車の後部座席やフロアマットから、被害者A田の血液型と同じO型の人血痕と人尿痕が検出された。
久間氏の病状: 犯行当時、久間氏が糖尿病による亀頭包皮炎に罹患しており、亀頭の粘膜に裂傷があり容易に出血する可能性があったことが、被害者膣内等での第三者の血液と合致するとされた。
アリバイ: 久間氏に犯行の機会があり、アリバイが成立しないとされた。
弁護団は、これらの状況証拠も単独では久間氏を犯人と断定できないと主張し、その証明力に疑問を呈している。
有罪の根拠とされた主要な状況証拠(DNA鑑定と目撃証言)が、その後の再評価や新たな証言によって組織的に揺らいでいることは、当初の捜査と司法判断に深い問題があったことを示唆している。DNA鑑定では写真の改ざんが指摘され、裁判所もその証明力の減殺を認めたにもかかわらず、有罪認定を維持した。また、目撃証言については、警察による誘導の可能性や、目撃者自身が供述内容を否定する新たな証言が出ている。これらの状況は、当初の「状況証拠の積み重ね」が、客観的で揺るぎないものではなかった可能性を強く示唆する。証拠収集の過程における問題や、その後の司法による評価の甘さが、有罪判決の不安定な基盤を形成していたと考えることができる。
さらに、裁判所が新たな目撃証言を退ける際に「警察官がこのような捏造を行うというのは考え難い」と述べたことは、司法が捜査機関に対して根深い信頼を置いていることを露呈している。この姿勢は、他の冤罪事件で警察の証拠捏造が明らかになった教訓が十分に生かされていない可能性を示唆し、潜在的な誤判の再評価を阻害する要因となりうる。司法が過去の判断を覆すことに強い抵抗を示す背景には、判決の最終性を維持しようとする制度的な圧力が働いている可能性があり、特に死刑という不可逆な刑罰が執行された後では、その傾向が顕著になることが懸念される。
Table 2: 主要証拠と争点
証拠の種類 | 確定判決での認定 | 弁護団による問題提起/新証拠 | 裁判所の判断/評価(再審請求) | 関連情報 |
DNA鑑定 (MCT118型鑑定) | 被害女児の遺体や膣内等から検出された犯人由来のDNA型が久間氏と一致 | 足利事件と同じ手法で信用性に疑問。写真改ざん、鑑定技術的問題(ラダー欠陥、バンド幅広すぎ、同時電気泳動なし。再鑑定不可能。 | 「証明力減殺」「一致したとは認められないが、一致しないとも認められない」と一部認める。しかし、他の状況証拠で有罪維持。 | |
目撃証言 (誘拐現場付近) | 被害女児が最後に目撃された場所で、久間氏の車に類似する紺色ワンボックス車と女児2名が目撃された | 警察官による誘導の疑い(久間氏宅訪問後に調書作成)。供述内容の不自然な詳細さ(ホイールキャップ、ライン。事件発生から数ヶ月後、DNA鑑定後に証言開始。 【新証言】目撃者Pさん:「警察の強引な誘導で調書作成、事件当日ではない」と証言。 | 新証言の信用性を否定。「警察官による捏造は考え難い」「当時の供述は具体的」「証言に変遷あり」。再現実験も退け。 | |
目撃証言 (遺留品発見現場付近) | 遺留品発見現場の直近で、久間氏の車に類似する紺色ワンボックス車と中年の男が目撃され | 【新証言】目撃者Aさん:「後部座席に女児2名乗せた車を目撃したが、久間氏の車とは特徴異なり、運転手も別人」と証言。 | 新証言の信用性を否定。「具体的根拠の欠如」「観察時間不足」「証言の変遷と矛盾」「死亡時刻との不整合」。 | |
繊維片 | 被害者の着衣から被告人車と同型の座席シートの繊維片が検出 | (弁護団は単独では犯行を断定できないと主張) | (再審で特段の判断なし、他の証拠と総合評価) | |
車内の血痕・尿痕 | 被告人車の後部座席等から被害者A田と同じO型の人血痕・人尿痕が検出 | (弁護団は単独では犯行を断定できないと主張) | (再審で特段の判断なし、他の証拠と総合評価) | |
久間氏の病状 | 犯行当時、糖尿病による亀頭包皮炎で出血の可能性があり、膣内等の第三者の血液と合致 | (弁護団は単独では犯行を断定できないと主張) | (再審で特段の判断なし、他の証拠と総合評価) | |
アリバイ | アリバイが成立しないとされた | (弁護団は単独では犯行を断定できないと主張) | (再審で特段の判断なし、他の証拠と総合評価) |
V. 再審請求の経緯と司法の判断
久間氏の死刑執行後も、その冤罪の可能性を巡る動きは止まらなかった。
第1次再審請求とその結果
久間氏の妻(当時62歳)は、死刑執行から約1年後の2009年10月28日、福岡地方裁判所に再審請求を申し立てた。主な請求理由は以下の3点であった。
科警研が実施した血液型鑑定およびDNA型鑑定(MCT118型鑑定)の証拠能力ないし信用性が否定されること。これには、本田克也筑波大学教授の鑑定書等が新たな証拠として提出された。
足利事件の再審判決から、科警研のDNA型鑑定の証拠能力が否定されること。
自動車を目撃したとするT証言(誘拐現場付近の目撃者)の信用性が、新たな実験(嚴島第2次実験)に基づく鑑定書等から否定されること。
福岡地裁(原々決定)は、本田教授の鑑定書等により、久間氏の正確なMCT118型がm2-m8型であることが明らかになったとし、科警研のMCT118型鑑定について「犯人と事件本人のMCT118型が一致したとは認められないが、一致しないとも認められない」と判断した。これは、DNA鑑定の証明力に疑念が生じたことを事実上認めたものである。しかし、地裁はMCT118型鑑定の一致を除いたその他の状況事実を総合すれば、久間氏が犯人であることにつき合理的な疑いを超えた高度の立証がされていることに変わりはないとして、再審請求を棄却した。福岡高裁(原決定)もこの判断を是認し、即時抗告を棄却した。最高裁第一小法廷も2021年4月21日、特別抗告を棄却し、MCT118型鑑定の証明力減殺が他のDNA鑑定の評価を左右する関係にはないとし、新証拠によってS1の目撃供述の信用性が否定されたとはいえないと判断。MCT118型鑑定を除いたその他の状況事実を総合しても、久間氏が犯人であることについて合理的な疑いを超えた高度の立証がされているとして、原決定の判断を正当とした。
第2次再審請求における新証拠と弁護団の主張
第1次再審請求が退けられた後も、弁護団は新たな証拠の収集を続け、第2次再審請求を申し立てた。主な新証拠は以下の通りである。
女性Pさん(誘拐現場とされる通学路上で被害女児を見たとする目撃者)の新証言: 捜査機関の強引な誘導で供述調書が作成され、被害女児を見たのは事件当日ではない旨を新たに証言した。
男性Aさん(遺留品発見現場付近の目撃者)の新証言: 事件当日に後部座席に2人の女児を乗せた犯行使用車両と思われる車を目撃したが、久間氏の所有車両とは特徴が異なり、運転していた人物も久間氏ではなかった旨を新たに証言した。
弁護団は、これらの新証拠が飯塚事件の主要な状況証拠を全て崩壊させるものであり、再審が開始されるべきであると強く訴えた。
福岡地裁による棄却決定とその理由(2024年6月5日)
福岡地方裁判所第4刑事部(鈴嶋晋一裁判長)は、2024年6月5日、第2次再審請求を棄却する決定を下した。
女性Pさんの新証言の信用性否定: 地裁は、「警察官がこのような捏造を行うというのは考え難い」と述べ、捜査機関がPさんの記憶と異なる調書を無理矢理作成する必然性はないと指摘した。また、Pさんの当時の供述は「具体性に富む内容」であり、警察官が作り上げられるものではないと判断した。Pさんが2018年5月の供述録取書で「事件当日か何日か前かはっきりしない」としていたにもかかわらず、2023年11月の証人尋問で「事件当日ではない」と変遷したことを「重要部分に変遷が見受けられる」と批判し、「一貫した記憶に基づいて証言しているとは考えられない」と結論づけた。弁護団が提出した再現実験報告書も退けられた。
男性Aさんの新証言の信用性否定: 地裁は、Aさんが目撃した女児が被害児と「全体の雰囲気が似ていたと繰り返すばかりで、似ていると判断した具体的根拠を全く示すことができていない」と批判した。Aさんが「不審車両を追い越す1~2秒の間に車内の女児2人を目撃したに過ぎない」とし、「女児の顔貌を子細に観察し記憶する余裕があったとは考え難い」として証言を受け入れなかった。また、Aさんの目撃時刻が変遷していること、死刑判決が認定した女児2人の死亡時刻(午前8時半~9時半ごろ)と整合しないこと、目撃した車が遺体発見現場と異なる方向に向かっており犯人の行動として不自然であることも否定理由として挙げた。
これらの理由から、地裁は両者の新証言は信用できないと結論づけ、再審請求を棄却した 15。
弁護団による批判と即時抗告
久間氏側の弁護団は、福岡地裁の決定を「全く不当で強く抗議する」「人間が書いた文章ではない」「結論ありきで理由を書いた」と強く批判した。弁護団は、決定が白鳥決定や財田川決定(新旧全証拠の総合評価、「疑わしいときは被告人の利益に」)に違反していると主張している。
2024年6月10日、弁護団は決定を不服として福岡高裁に即時抗告した。弁護団は、検察官が裁判所の勧告にもかかわらず警察からの送致文書リストの開示を拒否したことを「公益の代表者」とはかけ離れた行為であり、憲法37条(裁判を受ける権利)や31条(適正手続の保障)の侵害に当たると指摘している。高裁に対し、証拠リストの提出命令を出すよう強く求めている。
裁判所が新たな目撃証言を退ける際に、「警察官がこのような捏造を行うというのは考え難い」という表現を用いたことは、日本の司法制度における捜査機関への深い信頼と、それに伴う潜在的な問題を示唆している。この姿勢は、他の冤罪事件で警察の不当な捜査や証拠の捏造が明らかになった事例があるにもかかわらず、その教訓が十分に生かされていない可能性を浮き彫りにする。このような司法の前提は、新たな証拠が提出された際に、それが過去の判決を覆す可能性を秘めている場合、その証拠の評価に不必要なハードルを設けることにつながる。結果として、冤罪の可能性を再検証し、誤りを是正する機会が阻害される危険性がある。
再審請求が繰り返され、新たな証拠が提出されるにもかかわらず、裁判所がそれらを退け続ける状況は、日本の刑事司法制度において、特に死刑が執行された事件における冤罪の是正がいかに困難であるかを示している。DNA鑑定の証明力減殺を認めつつも、他の証拠で有罪を維持する判断や、新たな目撃証言の信用性を厳しく否定する姿勢は、司法が一度下した死刑判決、特に執行済みの判決を覆すことに対して、極めて強い制度的抵抗を示していると解釈できる。これは、司法の最終性を維持しようとする傾向が、真実の探求や誤判の是正という本来の目的を凌駕しているのではないかという疑問を提起する。
VI. 飯塚事件が提起する司法制度への問い
飯塚事件は、日本の刑事司法制度、特に死刑制度と再審制度の根幹に深く関わる複数の問いを提起している。
冤罪の可能性と死刑制度の課題
久間三千年氏が死刑執行されるまで一貫して無実を主張し続けたにもかかわらず、直接証拠が一切なく、足利事件と共通する問題点を抱えるDNA鑑定や信用性に疑義のある目撃証言といった状況証拠のみで有罪とされ、刑が執行された事実は、本事件が極めて冤罪の可能性が高い事件として認識されている理由である。足利事件ではDNA再鑑定によって冤罪が明らかになったにもかかわらず、飯塚事件では死刑が執行されたことは、日本の死刑制度に極めて重大な問題点を突きつける。
死刑は生命を剥奪する非人道的な刑罰であり、一度執行されれば取り返しがつかない。そのため、冤罪の可能性が少しでも残る事件での執行は、日本国憲法が保障する基本的人権の核である生命の尊厳に反するという強い批判がある。本事件は、「人が人を裁くことの重さ」や「司法の制度に危うさがある」という根本的な問いを社会に改めて突きつけている。弁護団は、裁判所が「死刑制度の存置が問題になるので、再審を躊躇している」と指摘しており、これは司法判断の背後に、制度維持という別の考慮が影響している可能性を示唆している。
飯塚事件は、死刑という不可逆的な刑罰が、証拠の脆弱性や捜査・司法判断の疑義が指摘される中で執行された、悲劇的な事案である。この事件は、司法制度における証拠の取り扱い、再審プロセスの機能不全、そして死刑制度の倫理的基盤という、複数の側面で深刻な課題を浮き彫りにする。久間氏の死刑が執行された後も、新たな証拠が提出され、冤罪の可能性が指摘され続けている事実は、たとえ後に無実が証明されたとしても、その究極の不正義は取り返しがつかないことを意味する。これは、死刑制度が本質的に抱える「不可逆な不正義」の問題を象徴しており、日本の死刑制度の倫理的根拠に対し、極めて深刻な問いを投げかけている。
再審制度の現状と法改正の必要性
第2次再審請求の棄却決定は、再審開始の要件である「新規・明白な証拠」の評価において、新旧全証拠の総合評価や「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則(白鳥決定、財田川決定)に反していると東京弁護士会から強く批判されている。裁判所が新証拠のみを孤立的に評価し、旧証拠を完全に否定するほどの証明力を要求する姿勢は、冤罪救済の機会を著しく狭めていると指摘されている 5。袴田事件で捜査機関による証拠の捏造の可能性が指摘された教訓が、飯塚事件の再審判断に十分に生かされていないという批判も存在する。
これらの状況から、再審請求手続きは現行の運用では適正化が困難であり、冤罪被害者を速やかに救済するためには、再審法の抜本的な法改正が不可欠であると、法律家団体が強く主張している 5。再審請求が繰り返される中で、裁判所が新たな証拠を退け続ける現状は、日本の司法制度において、死刑が執行された事件の冤罪を是正することがいかに困難であるかを示している。これは、制度の安定性や過去の判決の最終性を維持しようとする傾向が、真実の探求や誤判の是正という本来の目的を凌駕している可能性を指摘するものである。
証拠開示のあり方と検察の役割
第2次再審請求審において、福岡地裁が検察官に対し警察からの送致文書リストの開示を勧告したにもかかわらず、検察官が「裁判所にそのような勧告をする権限はない」として開示を拒否した事実は、日本の刑事司法制度における根本的な情報の不均衡を露呈している。弁護団は、このような検察官の対応は「公益の代表者」とはかけ離れており、憲法37条(裁判を受ける権利)や31条(適正手続の保障)の侵害に当たると指摘し、冤罪被害者の救済をさらに困難にしていると批判している。再審請求審における証拠開示の法的義務を明確化する法改正の必要性が、改めて強調されている。検察側が証拠開示を拒否し続けることは、弁護側が新たな無罪の証拠を発見する道を閉ざし、冤罪の是正を阻害する大きな要因となっている。これは、日本の刑事司法制度において、検察の裁量と司法の権限のバランスが、冤罪救済の観点から適切でない可能性を示唆している。
メディアの役割と報道の検証
飯塚事件は発生当初から大々的に報道され、世論形成に大きな影響を与えた。福岡の地元紙である西日本新聞社は、2018年から2019年にかけて83回にわたる「検証飯塚事件」という連載を開始し、事件発生当初の自社の報道(特に久間氏を重要参考人としたスクープ)を自ら検証するという異例の取り組みを行った。これは、メディアが過去の報道が司法判断や世論に与えた影響を自省し、その責任を果たす姿勢を示している。
NHKもこの西日本新聞の検証報道に着目し、ドキュメンタリー番組「正義の行方~飯塚事件 30年後の迷宮~」を制作、後に映画化された。この作品は、弁護士、元警察官、新聞記者という異なる立場の当事者たちが、それぞれの「真実」と「正義」を語る多角的な視点を提供し、人が人を裁くことの重さを問いかけている。従来のメディアが単に事実や捜査機関の発表を報じるだけでなく、自らの報道を検証し、司法プロセスにおける「真実」や「正義」のあり方を多角的に問い直す役割を担っていることは、司法の透明性と説明責任を求める社会の動きを後押しし、国民の司法への理解を深める上で重要な動きである。これは、メディアが司法の独立した監視役として機能し、より公正な司法の実現に貢献しうる可能性を示している。
VII. 結論
飯塚事件は、直接証拠がない中で、足利事件と共通する問題点を抱えるDNA鑑定や信用性に疑義のある目撃証言といった状況証拠のみで死刑判決が確定・執行された、日本の刑事司法史上極めて異例かつ問題の多い事件である。久間氏の死刑執行後も弁護団による再審請求が継続され、新たな証拠が提出されているにもかかわらず、裁判所がその信用性を否定し、再審開始を認めない決定を下していることは、日本の再審制度の硬直性と、冤罪救済への高いハードルを示している。特に、足利事件でDNA再鑑定が行われる見通しが報道された直後に飯塚事件の死刑が執行されたタイミングは、司法の独立性、冤罪防止に対する姿勢、そして死刑制度の運用に対する根本的な疑問を投げかけている。
本事件は、日本の刑事司法制度が抱える構造的な課題、特に状況証拠のみによる有罪認定、不可逆的な死刑制度、そして冤罪の可能性を是正するための再審制度の機能不全が交錯する悲劇的な事例として位置づけられる。この事件が問いかけるのは、単なる個別の誤判の可能性に留まらず、司法が真に公正であり続けるための制度的保障が十分であるかという根源的な問いである。
今後の展望として、弁護団は福岡高裁への即時抗告を通じて、引き続き真実の解明と久間氏の冤罪の証明を目指すことになる。この過程で、検察による証拠開示の拒否問題が引き続き焦点となり、司法の透明性と公正な手続きの保障が改めて問われる。東京弁護士会をはじめとする法律家団体は、飯塚事件が提起する問題を重く受け止め、冤罪被害者を速やかに救済するための再審法改正(特に証拠開示の義務化)の必要性を強く訴え、その実現に向けて活動を継続する方針である。飯塚事件は、既に死刑が執行された事件でありながら、その冤罪の可能性が強く疑われ続けているという特殊性から、日本の死刑制度のあり方、特にその不可逆性と冤罪の危険性という根本的な問題について、社会全体に問いかけ続けている。メディアによる自社報道の検証や多角的なドキュメンタリー制作は、司法の透明性と説明責任を求める社会の動きを後押しし、国民の司法への理解を深める上で重要な役割を担うことが期待される。
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